英米で再評価の「江戸川乱歩」「横溝正史」 なぜ今「エログロ」が必要とされるのか
閉鎖的な村社会を描写
正史もまたエログロ・ナンセンスの昭和初期には「新青年」に猟奇耽異な名編「鬼火」(1935年2月号~3月号)や「蔵の中」(1935年8月号)を寄稿しています。かれの作品が乱歩の大方のそれと異なるのは、土俗的な怪奇幻想エログロ趣味に彩られてはいるものの、謎解きパズラーとしての精緻な推理と巧妙なトリックが用意されている点です。そのことは、『獄門島』(昭和22年~23年)や『八つ墓村』(昭和24年~26年)、『犬神家の一族』(昭和25年)などで明白でしょう。
正史の前近代的、農村的、封建的風習が濃厚な生活環境で発生するおどろおどろしい猟奇殺人事件の数々は、江戸時代の妖異耽美にして血みどろの読本や草双紙の世界とも通底しています。とりわけ、閉鎖的な村社会における迷信や民間信仰を背景にした『八つ墓村』に顕著です。もちろん、その物語が岡山県で実際にあった「津山三十人殺し事件」(昭和13年)に材をとっていることは、あまりにも有名でしょう。
そういえば、正史の戦後の出世作であり、同時に金田一耕助初登場の長編『本陣殺人事件』は、乱歩の肝煎りで城昌幸を編集主幹に迎えた探偵小説専門誌「宝石」に創刊号から連載(1946年4月号――12月号)されました。
欧米で静かなブームに
今年は江戸川乱歩が「二銭銅貨」でデビューしてから100年目、そして横溝正史生誕120年にあたります。英米では近年、若い評論家や読者による乱歩や正史の作品の再評価が進んでいて、静かなブームになっているようです。
個人的には、100年ほど前にモダニズム文化の悪趣味B級化――キッチュ化したエログロ・ナンセンス文化を図らずもけん引することになった探偵小説の両雄の作品を今一度読み直すことで、〈変態〉が、そのポップな形態のエログロが、実は正常・正統という虚飾をまとった体制的な視点から逸脱する自由な精神の謳歌であることを再確認したい。
グローバル化が唱道されながらもキナ臭い世界情勢、同時にコロナ禍によってなにやら人間の本性まで垣間見られる昨今。この不安定で先の見えない閉塞した社会においてこそ、これまで〈正常〉とか〈普通〉、〈自然〉とかいわれてきたものの見方からはずれた〈変態〉的視点――エログロ異端思考が必要とされるのではないでしょうか。
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