ロシア外交官“8人国外退去”で思い出す「大物スパイ」 協力者に自民党、社会党大物議員の名

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「リアル・エージェント」

 レフチェンコはモスクワ大学付属のアジア・アフリカ研究所の学生となり、6年間日本語、日本の歴史、日本経済、日本文学を学んだ。大学院では日本の平和運動の歴史に関する論文を執筆している。大学院卒業後KGBに入り、1970年、大阪万国博覧会でKGB高官の通訳として来日している。

 1975年2月、KGB東京代表部に赴任。任務はスパイ工作で、日本の政界や財界、マスコミ関係者と接触し、日本の世論や政策が親ソ的になるよう活動していた。

 アメリカ亡命後の1981年8月、ソ連軍事裁判所で重反逆罪による死刑を宣告されたが、1989年、アメリカ国籍を取得した。

 話を日本での活動に戻せば、レフチェンコは日本人の協力者をコードネームで呼んでいたという。

 協力者として名指しされたのは、「ギャバー」と呼ばれた勝間田清一(元日本社会党委員長)、「フーバー」こと石田博英(元労働大臣)、「カント」こと山根卓二(サンケイ新聞編集局次長)など9名だったが、いずれも「事実無根」として疑惑を否定している。

「レフチェンコがコードネームで呼んだ協力者の中で、『リアル・エージェント』と呼ばれるKGBの完全なコントロール下にあった協力者は 7、8人いたそうです」

 と解説するのは、勝丸氏。

「日本からアメリカに亡命するまでわずか5年程の間に、レフチェンコ一人の力でこれだけの協力者をつくるのはまず無理でしょう。旧ソ連は、太平洋戦争後シベリアに抑留した日本人の中から、知的レベルが高くて協力的な日本人を選び、30人以上をスパイに仕立てていました。前任者から彼らを引き継いだり、新たな協力者を紹介してもらったりしたようです。政治家や大手新聞社の記者、大学教授、財界人、外務省職員、内閣情報調査室の職員など、その職業は多岐に渡っていました」

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