プーチンはいつどこで狂った? インタビューから読み解く「少年時代のコンプレックス」

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妄執にまで発展する主張

 ニューヨーク・タイムズ紙は3月27日、〈プーチンの作り方〉と題する記事で次のように書いている。

〈2008年2月、米国とその多くの同盟国は、セルビアからのコソボの独立を承認したが、ロシアはこの一方的な宣言を違法なものであると拒絶し、スラブの同胞に対する侮辱だととらえた。フランスも、ドイツと共に、ジョージアとウクライナの「(NATO)加盟のための行動計画」(MAP)に(NATOサミットが開かれたルーマニアの)ブカレストで反対した〉

 厄介なのは、アメリカがジョージアとウクライナの加盟に前向きだったことで、

〈プーチンはブカレストにやってきて、ライス(元米国国務長官)が言うところの“感情的なスピーチ”を行い、『ウクライナは人為的に作られた国であり、1700万人のロシア人がそこにはおり、キエフは全てのロシアの都市の母である』と述べた。これは後に妄執にまで発展する主張である〉

ウクライナは「手違いで誕生した国」

 プーチンは大統領に返り咲いた12年の会見で、「政治的な影響を受けた人物」を聞かれ、ピョートル大帝と、女帝のエカテリーナ2世の名前を挙げている。

「プーチンは、帝政ロシアなどの歴史そのものより、自分の政治を正当化するため歴史を利用することに関心があるのです」(筑波学院大学の中村逸郎教授)

 先の名越氏は、

「帝政ロシアは18世紀、エカテリーナ2世の時代にトルコと何度か戦争をしてウクライナ東部やクリミアを領有しました」

 と、こう解説する。

「その辺の土地は気候が良く農業に適しているのでロシア人が入植した。しかし、ロシア革命後、レーニンがロシア領土の一部を分離してウクライナ共和国を作ったのだと、プーチンは主張しています。つまり、プーチンにとってウクライナという国はソ連指導部の手違いで誕生した国であり、あくまでもロシアの一部なのです」

 14年にウクライナ南部のクリミア半島を併合した背景には、そうした考えがあったのか。そして、その先に今回の侵攻があることは言うまでもない。

 ブチャでの虐殺が明らかになった頃、クレムリンの代弁者ともいえる新聞「RIAノーボスチ」に掲載された主張は、もはやグロテスクとすらいえるものだった。その記事は、

〈ウクライナ国家の“非ウクライナ化”を要求している。ウクライナ人はナチがユダヤ人、ロマ人、スラブ人など、東方出身の人々を称した“劣等人種”として描かれている。これは、まったくのファシズムである〉(ウクライナの主要ニュース媒体「The New Voice of Ukraine」の4月4日付の記事より)

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