プーチンはいつどこで狂った? インタビューから読み解く「少年時代のコンプレックス」

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大出世の「裏」

 75年にKGBに入ったプーチンはレニングラード支部で勤務した後、85年から90年まで旧東ドイツ、ドレスデンのKGB支部に駐在した。レニングラード支部時代に国内線のスチュワーデスをしていたリュドミーラと知り合い、結婚。2人の娘をもうけた。

 ドレスデン時代にベルリンの壁崩壊に遭遇したプーチンは故郷に戻り、KGBからの出向としてレニングラード大に勤務。その傍ら、改革派だったサンクトペテルブルクのサプチャク市長の政治活動を手伝うようになる。91年、後のソヴィエト連邦崩壊につながるクーデター未遂事件を機にKGBを退職している。

 94年からはサンクトペテルブルク市の副市長を務めたが、“ボス”であるサプチャク市長が96年の選挙で敗北すると、プーチンも辞職。その後、モスクワの大統領府で働き始めた彼は異例の大出世を遂げる。何しろ、モスクワに来た2年後の98年にはKGBの後身機関である連邦保安局長官に任ぜられ、翌年には首相に就任するのだ。エリツィン大統領はプーチンを指名するまでに4度首相を交代させていた。

 映画監督のオリバー・ストーンがプーチンにインタビューを重ねたドキュメンタリー「オリバー・ストーン オン プーチン」(17年)では、

〈私はレニングラードからモスクワに出てきた。モスクワには強力な後ろ盾も知り合いもいなかったんだ。でも、1996年に出てきて2000年1月1日には大統領代行になった。なぜ私が選ばれたか分からない〉

 と語っているが、そこに「裏」はないのか。

連続爆破事件を自作自演した疑惑

 拓殖大学海外事情研究所教授で元時事通信モスクワ支局長の名越健郎氏の話。

「プーチンが首相に就任した翌月、モスクワなど4カ所で集合住宅の連続爆破事件が発生し、約300人が死亡しました。プーチンはいち早くチェチェン共和国独立派のテロと断定し、地上部隊をチェチェンに派遣して国民の喝采を浴び、支持率も2%から70%に急上昇。しかし、この連続爆破事件は政府側の自作自演だったという疑惑が今もくすぶっています」

 こうした“功績”もあって大統領代行に任命されたプーチンは2000年3月の大統領選に当選し、47歳でロシア大統領となるのだ。以降、首相時代も含めて22年の長きにわたって権力の座を占め続けた男の来歴には、大きく分けて二つの“柱”がある。一つは独裁体制の構築、もう一つは西側諸国との「心理戦」だ。

「プーチンは大統領就任当初、2000年頃は西側と共同歩調を取った国家運営を考えていたはずです。しかし、人権問題やメディアへの弾圧などが浮上すると、欧米から圧力がかかる。プーチンからすれば、ハシゴを外された、という気持ちになったでしょう」

 そう話すのは、元産経新聞モスクワ支局長で大和大学教授の佐々木正明氏。

「03年にはプーチンに批判的だったオリガルヒ(新興財閥)の一人、ミハイル・ホドルコフスキーを投獄するなど、国内であっても敵はどんどん排除していこうという動きが目立つようになります。さらに04年には、ロシアと国境を接するバルト三国がNATOに加盟。プーチンの中で西側への疑念が高まっていったことは言うまでもありません」

 ロシアのテレビが明らかなプロパガンダばかり流すようになったのもこの頃からだが、04年には7割を超える得票率で再選。08年、メドベージェフ大統領就任に伴い、首相となった。この時期、すでに西側諸国との関係は抜き差しならないものになっていた。

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