グローバル化が生んだ「エリートと庶民の分断」 経済的移民の受け入れは本当に人道的なのか
エリートと一般庶民の分断
他方、グローバル化以降のビジネスエリートたちはどうでしょうか。彼らはノートパソコンひとつあれば、世界中どこにいても儲けられるという感覚があるからなのか、地域や国に恩返しするという意識がなくなってしまったように見受けられます。金を稼いだら宇宙旅行に出かけようとするのは、もしかしたら地域や国から脱したい思いの表れなのではないかとすら思ってしまうほどです。彼らはタックスヘイブンで課税逃れをし、その上で「法人税を下げろ」「福祉を削れ」「公共投資を減らせ」と主張して、一般庶民の生活を顧みようとしない。つまりグローバル化は、地域や国との結びつきが弱くなった現代のビジネスエリートの劣化を招いた。その結果、エリートと一般庶民の分断が進んだわけです。
これまで論じてきたように、弊害の多いグローバル化に私はくみしません。だからといって鎖国しろと言いたいわけではなく、目指すべきは国際化だと考えています。
グローバル化が国境の垣根を可能な限り低くするという考え方であるのに対して、先にも説明したように国際化は、国境や国ごとの違いを「障壁」とは捉えずに、各国・各地域の違いを尊重した上で交流を深化させるという考え方です。まさに、ハゾニー氏が言うところの「多数の国々からなる世界」です。
引っ越さなくてもいい世界
経済政策においても、それぞれの国や地域で暮らす人々に合った幸福を目標とすべきであり、これはグローバリズムが浸透する以前は当たり前の考え方でした。日本型資本主義があれば、北欧型やアングロサクソン型の資本主義があってもいい。しかし、普遍化を強要してくるグローバリズムはその多様な「型」を良しとせず、邪魔なものと見る。そして、各国でエリートと一般庶民の分断が深刻化している。したがって、私はポスト・グローバル化の秩序は「型」を認める社会であるべきだと考えます。それは「引っ越さなくてもいい世界」でもあります。
グローバル化≒新自由主義のもとでは、とにかく国境の垣根を低くして人を自由に移動させることが最重要課題でした。そのほうが、より安い労働力を手に入れることができるからです。結果、経済的移民が生み出される。
移民の受け入れは、一見、人道的に思えます。しかし、果たしてそうでしょうか。人間が生まれた国の文化や言語から100%自由になることは難しい。能力や財力があって、他文化での生活を選択できる人もいるでしょうが、大多数の人、つまり一般の庶民にとって容易なことではありません。常識的に考えて、日本人は日本語環境の中で最も能力を磨き、そして発揮できるでしょうし、フランス人であればフランス語環境の中においてでしょう。
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