グローバル化が生んだ「エリートと庶民の分断」 経済的移民の受け入れは本当に人道的なのか

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 新型コロナウイルスとは一体何だったのか――。「新しい生活様式」を強いられてもう2年超が経過した。だが、我々は果たして「新しい思考様式」を身に付けることができているだろうか。未曾有の疫禍をきっかけに識者が問う、シリーズ「ポスト・コロナ」論。

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 ポスト・コロナの時代においては「グローバル化の見直し」こそが課題である――。そう提唱すると、必ずといっていいほどこう批判されます。

「あなたは鎖国でもするつもりか」

「孤立主義者なのか」

「極右の考え方だ」

 もちろん、私は鎖国するべきだなどとは微塵も考えていない。コロナ禍を、「グローバル化=善」という認識図式を考え直す奇貨とすべきではないかと訴えているに過ぎません。

 実際、コロナ禍はグローバル化のさまざまな問題点を浮き彫りにしました。にもかかわらずこの数十年、グローバル化は善であり、それに少しでも疑義を呈する者は抵抗勢力で、時代遅れであるかのような大きな流れができあがってしまった。その結果、「グローバル化の問題点」を語ることが半ばタブー視されてきました。しかし、グローバル化の見直しとは、決して孤立主義を意味しているわけではありません。このことを理解するためには、「グローバル化」と「国際化」という、似て非なるものをしっかりと峻別して考えることが極めて重要だと思います。

グローバル化と国際化は対局の概念?

〈こう説くのは、九州大学大学院の施光恒(せてるひさ)教授(政治理論)だ。『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』などの著書がある施教授は、かねてグローバル化の問題点を指摘してきた。

「失われた30年」という。それは「改革」の大合唱のもとで、結局は経済も含め社会全体が疲弊した年月を意味する。

 そしてその改革は「グローバル基準」を合言葉に進められてきた。結果、たどり着いたのが令和の今の姿であるわけだが、「改革=善」、すなわち「グローバル化=善」という空気は、未だ日本を根強く支配している。その等式の欺瞞をコロナ禍は顕在化させた、と施教授は言う。〉

 一見、グローバル化と国際化は同義だと感じられるかもしれません。しかし両者は、実は対極的ともいえる概念なのです。

 グローバル化とは、国境の垣根をできる限り低くして、人・モノ・カネ・サービスの動きをより自由化し、活発化させていくことと定義できます。

 一方、国際化は、国境や国籍は維持したままで、各国の言語や文化、伝統が異なることを当然の前提とした上で、それを互いに認めつつ交流を深めるという考え方です。

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