外務省「ロシアに不法占拠」と19年ぶりに明記 本当は「南千島」なのになぜ「北方領土」と言い出したのか
2島返還で納得していた日本
「北方領土」という呼称は戦後すぐからあったのではない。時事通信社のモスクワ支局長だった石郷岡健氏の著書によれば、1956年以前、「固有の領土」と「北方領土」という表現は国会の議事録でもほとんど出てこず、「南千島」という表現だった。それが1956年以降は「南千島」が「北方領土」に代わってゆく。それにはこういった理由がある。
日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で、米英など連合国側に対する無条件降伏を認めた。サ条約は「日本国は千島列島並びに(中略)樺太の一部及びこれに隣接する諸島のすべての権利、権原および請求権を放棄する」としたが、ソ連は参加せず、平和条約とともに領土問題は積み残されてしまう。
条約の批准国会で、野党議員に「放棄した千島に南千島は入るのか?」と問われた外務省の西村熊雄条約局長は「含む」と答えた。当時、日本は得撫島以北を「中千島」「北千島」、以南の択捉(えとろふ)島と国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島を「南千島」とした。歯舞(はぼまい)群島は北海道の一部だった。西村局長の答弁は「日本は国後島と択捉島を放棄する」と言ったのも同然だったが、強い反発もなかった。
1956年10月(国会承認は12月)、鳩山一郎首相はソ連ブルガーニン首相との間で「平和条約を締結して歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す」とした有名な「日ソ共同宣言」を結ぶ。しかし冷戦下、ソ連と日本の接近を警戒する米国のダレス国務長官の圧力で、2島返還で納得していたはずの日本は「4島返還」を打ち出す。そこでサ条約で放棄した択捉島と国後島を含む「南千島」のことを「千島ではない」とは言えず、苦肉の策で「北方領土」という、固有名詞ではない曖昧表現にすり替えたのだ。
石郷岡氏によれば、ロシア側も非公式に「北方領土」の表現を使うこともあるというが、基本的にロシア語でも「南クリル諸島」。「北方領土」では英語にもならない。英語では千島列島は「クリルアイランズ」である。
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