【鎌倉殿の13人】頼朝はなぜ義経を切ったのか 共に冷酷だった2人の決定的な違い
頼朝の義経への不信
頼朝と義経には「冷酷」という共通点があったが、頼朝が希代の政治家だったのに対し、義経は政治センスが皆無。ほかにも決定的な違いがあった。義経は頼朝を信じていたが、頼朝は身内も含めて誰も信じていなかったのである。これも三谷史観の通りだ。
頼朝の義経への不信が動かぬものになったのは「壇ノ浦の戦い」後の梶原景時(中村獅童)からの報告。こういった内容だった。
「義経殿の勝利は頼朝様が御家人を貸し与えたからこそ成し遂げられたものですが、義経殿は自分一人の功だと思い込んでいます……平家を討ち滅ぼした後の義経様はこれまで以上に傲慢なため、みな薄氷を踏む思いです」
義経は戦の大将だったが、景時も軍奉行のような立場。総大将の頼朝に近く、その言葉は重かった。
半面、この報告を景時の逆恨みと見る向きもある。「屋島の戦い」の際、義経と景時の間には「逆櫓の論争」と呼ばれる対立劇があった。
出陣前の打ち合わせで、景時は「船には進退の自由が利く逆櫓を付けるべき」と主張したが、義経は「逃げることを考えていては良い結果は生まれない」と一蹴した。
続く「壇ノ浦の戦い」でも対立。景時が義経に対し、「今日の先陣は景時にお任せを」と申し出たところ、義経は「自分がいなければそうする」と却下する。
景時が「とんでもない、殿は大将軍であります」と食い下がると、義経は「頼朝殿こそ大将軍。自分の格は貴殿たちと同じ」と答えた。
話がまるで噛み合わない。義経が景時を軽んじていたからだ。不満を抱いた景時が「この殿は侍の主にはなれない」と漏らすと、義経は「愚か者」と憤り、あわや斬り合いという事態になった。
義経の大きな失敗は「頼朝配下の武士は自分の配下でもある」と勘違いしたこと。景時に限らず、武士たちにそんな気はサラサラなかった。
また、第16話で描かれた「一ノ谷の戦い」(1184年)において、義経は「崖を馬で下りよ」と武士たちに命じたが、こんな無茶ばかり強いていたから人望も薄かった。
景時から頼朝への報告があってから間もない1185年5月、義経は捕らえた平宗盛(小泉孝太郎)を連れて京から鎌倉に向かったものの、頼朝は鎌倉入りを許さなかった。鎌倉に近い腰越(現鎌倉市南西部)で足止めした。ここで初めて義経は頼朝の怒りの大きさを知る。やはり政治センスが皆無だ。
慌てた義経は事態の打開を図るべく頼朝の側近・大江広元(栗原英雄)に対し、取りなしを依頼する手紙を送る。「腰越状」と呼ばれるものだ。しかし効果なし。頼朝は義経に京へ帰るよう命じた。
追い打ちをかけるように頼朝は義経が平氏から奪った土地を没収する。景時の言葉の通り、その土地は義経が1人で戦って得たものではなかったからだ。
さらに頼朝は義経に刺客を送る。このままでは殺されることに気づいた義経は伯父・源行家(杉本哲太)とともに後白河法皇に謁見し、頼朝追討の宣旨を受ける。1185年10月のことだった。
すぐに義経は京近隣の豪族たちに挙兵を呼び掛ける。だが、応じる者はほとんどいなかった。勝ち目がない上、人望の薄さが影響した。この1カ月後、今度は頼朝が義経追討の宣旨を受ける。追い詰められた義経は逃亡生活に入った。
1186年7月、捕まって鎌倉に連行された静御前が義経との子供を出産した。女の子なら生かされるはずだったが、男の子だったため、頼朝の命で殺されることになった。
静御前はずっと子供を離さず泣き続けた。この時、政子(小池栄子)は頼朝に考え直すよう頼む。第17話の源義高(市川染五郎)の殺害前と同じだ。しかし、子供はやはり殺されてしまい、遺体は鎌倉の由比ヶ浜に沈められた。
一方、義経は16歳から22歳まで育ててもらった奥州藤原氏3代目の藤原秀衡(田中泯)を頼った。1187年の春先のことだった。秀衡は頼朝との関係悪化も恐れず、温かく迎え入れた。
ところが秀衡は約半年後に病死してしまう。跡を継いだ泰衡は1189年4月、義経を襲う。頼朝との衝突を避けるためで、義経の住んでいた平泉の衣川館に数百騎の兵を差し向ける。
逃げ場を失った義経は一緒に暮らしていた22歳の正妻・郷御前(三浦透子)と4歳の女児を殺害した後、自刃する。
この時、義経は31歳。頼朝との対面の10年後だった。
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