戦後日本で優遇されて勢力を拡大した「在日本朝鮮人連盟」 預金封鎖をされない特例措置
多数の朝鮮団体名で多額の新円が引き出され…
この5月の申請に相当するものではないが、実際に政府が封鎖預金の支払許可を出した記録がある。『朝鮮、中国、関係団体一覧表(封鎖預金支払許可の参考)』という資料(1947年1月17日)である。これによると朝連は、朝連名義や多数の朝鮮団体名で多額の新円を引き出している。
その項目を見ると、「一ケ月の許可基準」が「一五、〇〇〇千円」とあり、「自由支払許可」の項目に、
「六月 二〇、〇〇〇千円
七月 一〇、〇〇〇千円
八月 一二、三一〇千円
九月 八、〇〇〇千円
十月 一五、〇〇〇千円
十一月 二三、〇〇〇千円
十二月 二一、五〇〇千円
一月 一〇、〇〇〇千円」
とあって、毎月引き出されていることがわかる。
この他にも、在日本朝鮮居留民団、朝鮮建国促進青年同盟、在日本朝鮮商工会、大韓建設協会、朝鮮奨学会、在日本朝鮮人生活援護委員会など、十数団体の申請に応じて封鎖預金が支払われている。
次回以降に詳述するが、朝連の預金には、引揚者から得た資金も含まれていた。朝鮮人が帰還の時に多数の「銀行貯金通帳・郵便貯金通帳を朝連に預けさせた」(エドワード・ワグナー『日本における朝鮮少数民族』)からである。
無力の日本商人
大蔵省は金融措置の実施後、朝連や他の諸団体から支払い申請が出されると、弾力的に対応し、さみだれ式に運用の改定を行っていった。大蔵省財政史室が編集した『昭和財政史』第12巻金融編にはこうある。
「改正は、措置令自体については七回、施行規則については二十四回にわたって行われ、告示や通達による実質的変更もまた多く、ほとんど原型をとどめぬままになった。その改正の中心は、『封鎖預金等』の引出制限に関するものと金融機関と資金融通規制にかんするものが大部分であった」
9月2日に帝国政府が降伏文書に調印してから、日本の統治権は連合国軍総司令官に移り、これら預金封鎖の特例の適用は、占領軍と在日本朝鮮人連盟とその関係先に限られていた。大蔵省がGHQの政治的圧力に屈し、戦後の庶民の生活を苦しめた預金封鎖から朝連や各種朝鮮人団体を適用除外にしたのなら、進歩党員・椎熊三郎が1946年8月17日の帝国議会でふるった熱弁も、単なる朝鮮民族への反感とは片付けられないだろう。
「朝鮮人は、すべての闇市場活動の中核をなし、またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。かれらは警察をはばからず、輸出入禁制品の取引を誇示し、またなんらの税もはらっていない。流通新円の三分の一は今やかれらの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は一週間前、国会で五百億の流通円のなかの二百億円は『引き揚げずに日本に残っている第三国人の手の中』にあると述べた。もしこの風説にして真実とするならば、無力の日本商人は、それら朝鮮人・台湾人の全体と対抗できない。事実、大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている」
つまり朝連の革命家が、当時の日本経済の一翼を担っていたことになる。
(敬称略)
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