戦後日本で優遇されて勢力を拡大した「在日本朝鮮人連盟」 預金封鎖をされない特例措置
新たに「在日朝鮮建国促進青年同盟」を結成
朝連から追い出された権逸にも、一心会の資金についての記述がある。
「地下工場一心会は一九四五年一月頃結成され、地下工場建設の前渡金を軍需省から貰い、孫海奎氏の梅田組によって着工されたのは一九四五年三月頃と思う。(中略)着工後わずか五か月で日本は敗戦を迎えた。その時、残った資金の処理について会の中でいろいろな意見に分かれた。朝鮮人連盟準備委員会で『朝連』の結成に奔走していた私は、この資金は『朝連』の準備金に提供すべきであると主張したが、会長団は応じなかったばかりか、彼等はこれを流用していた。それを朝鮮人連盟の左翼グループが見つけて奪取すると同時に、これをきっかけとして一心会云々しながら私を非難し始めたのである」(『権逸回顧録』)
その権逸は、朝連結成から1カ月後の11月16日、相愛会の朴春琴や親日反共幹部、一心会幹部らとともに、新たに「在日朝鮮建国促進青年同盟」(建青)を結成することになる。
朝鮮人初の国会議員
ここで相愛会の創始者で、朝鮮人初の国会議員となった朴春琴にも触れておこう。
朴は1906年に土木作業員として来日、やがて手配師となり、清水組、佐藤工業、飛島組、熊谷組などの仕事を請け負うようになった。そして関東大震災の朝鮮人殺害を目の当たりにして朝鮮と日本の融和・親睦の必要性を痛感、相愛会を作った。震災後の活躍ぶりは目覚ましく、朴は配下の労働者を総動員して震災の跡片付けをし、帝都の復興に大きく貢献した。その功績が称えられて名士の仲間入りをし、やがて国政選挙に出馬、衆議院議員となる。
相愛会は朴の仕事と表裏一体で、人材派遣会社のような機能も兼ね備えていた。土木作業現場に朝鮮半島出身の労務者を斡旋し、人材派遣の斡旋料をとる一方、労務者が派遣先で差別待遇を受けたり、意思疎通がうまくいかなかったり、あるいは労賃の未払いなどの揉め事があれば、仲裁や和解の労もとった。いまでも朝鮮人を多数雇用した大手企業には、この組織の名に因んで「相愛寮」と名付けられた施設がある。
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