戦後日本で優遇されて勢力を拡大した「在日本朝鮮人連盟」 預金封鎖をされない特例措置
「朝鮮人の処遇改善」への感謝として結成
一心会は1945年1月20日に誕生した。第85回臨時議会において、天皇が勅書で朝鮮人の国政参加を促すと、その要望を行ってきた各地の朝鮮人代表が東京に集い、「朝鮮人の処遇改善」への感謝として同会を結成したのである。そして天皇への奉仕事業として、埼玉県入間郡日高の高麗神社近くに「地下航空機工場」建設を計画、同胞より募金を集めたのだった。
金斗鎔の『朝鮮近代社会史話』には中央協和会の「みたみ新聞」からの引用記事が紹介されている。それによると、
「地下航空機工場建設連絡委員二十余名は帝国ホテルに連絡事務所を設け、連日寝食をわすれて連絡協議をとげたのである。その結果ここに全国に類例のない『地下工場建設一心会』が結成されるにいたった。これは軍需省、厚生省、警視庁、中央興生会など各関係官庁との円満なる理解と後援によってなされたが、特にその間軍需省局の後援支持はまことに大きいものがあった」
約12億円を朝連の懐に
この建設工事を受注したのは、日本の軍飛行場建設を請け負ってきた梅田組社長の孫海奎(梅田重夫)である。孫は戦時中、数千人の人夫を雇って軍施設の建設工事に当たり、また防空壕も作って、軍部からも朝鮮人人夫からも、人望を集めた人物だった。
この地下航空機工場の着工からわずか5カ月で終戦を迎えたことで、一心会には巨額の建設資金が残されることになった。
田駿は、その金額を具体的にこう記している。
「一心会地下飛行場建設を計画し、在日韓人の『赤誠』を表示したということで、約五百万円目標募金を行い、募金額は約三百五十万円に達した。これは工事費供託金として百五十万円が支出され、約五十万円が経費で支出され、結局百五十万円の残金があった」(『朝総連研究』)
金斗鎔はこの金に目を付けた。
「これを奪取しこの奪取を合法化するために、朝連結成中央準備委員会に一心会幹部たちが参加したことを、黙って見ていた。そして朝連結成大会が終わった段階で、すなわち結成大会第二日に彼ら一心会幹部をはじめとする親日派粛清に全力を注いだということだ。これにより朝連は一心会の財政を合法的に引き受けたことになった」(同前)
当時の150万円は現在の金額に換算すると、800倍の約12億円である。金斗鎔はその金額を組織ごと、朝連の懐に入れてしまったのだ。
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