「在日本朝鮮人連盟」と一体化していた日本共産党 活動資金、人的ネットワークをカバー
朝鮮半島の共産主義による統一
だが朝鮮半島においては、米軍は38度線以北に兵力を送る余力はなく、南の一部地域以外に、地上兵力を送る船舶もなかった。
トルーマンはこう書いている。
「一般命令第一号が承認を得るため私に提出されたとき、三十八度線より南は米軍により、北はソ連軍によって降伏を受諾するようになっていた。私はバーンズ(国務)長官が、米軍はできるだけ北の方まで降伏を受けるように提案したことを耳にした。しかし陸軍当局は、距離が遠いのと人員不足のため克服できない障害にぶつかっていた。三十八度線でさえ陸軍のどの部隊からしても遠かったのである」(『トルーマン回顧録』恒文社)
こうして朝鮮半島は、日本軍が降伏を受け入れるために便宜的に定められた38度線で北と南に分断されてしまった。
朝連設立時の中心人物・金斗鎔は、朝鮮半島の共産主義による統一を信じ、人民共和国建設を夢見て日本の革命運動に身を投じた。
「金はまた、分断された祖国は、ソ連の主導で共産主義によって統一されるべきであり、その統一は近い将来に可能である、と論じた」(『権逸回顧録』)
金は38度線以北出身であったが、在留朝鮮人の多くは南の出身者だった。にもかかわらず、朝連幹部の多くは北朝鮮による朝鮮半島の統一運動に身を投じ、やがては越北していく。
「朝鮮人ぬきで地方での日本共産党の活動は考えられないものがあった」
では日本共産党と在日本朝鮮人連盟は、どのように接近し、いかに関係を作っていったのか。
共産党に対する朝鮮人たちのシンパシーは戦前より培われていた。「季刊三千里」48号に「解放後十年の在日朝鮮人運動」と題された姜在彦、李哲、李進煕の鼎談がある。
「李哲 日本共産党に対しても、自らシンパであることをためらわなかった。読み書きのできないじいちゃん、ばあちゃんでも、日本共産党は戦前から自分たちの味方であったし、また実際にそうであったわけですから、共産党を助けることはすなわちわが祖国、わが民族のためになるのだと思っていましたからね。それはいわば一種の皮膚感覚のようなものだった。ですから『一匙運動』といって、ご飯を炊くとき、一匙は活動家のためにとっておいたものですよ。これに象徴されるように、少なくとも戦後のある時期までは、朝鮮人ぬきで地方での日本共産党の活動は考えられないものがあったといえます。しかしそれは、共産党が朝鮮人に要求したというより、朝鮮人が進んで参加したんですよ」
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