「在日本朝鮮人連盟」と一体化していた日本共産党 活動資金、人的ネットワークをカバー
占領下の日本で「特別の待遇」
亀山幸三は、1945年10月に日本共産党に入党、1946年の第5回党大会以降、中央委員である黒木重徳財政部長の下で財政部副部長を務め、後に党の財政部長として活躍した人物である。その彼は、
「その頃の共産党の舞台裏に関していえば、朝鮮人の同志らの存在が大きかった。彼らは戦後ながらく、朝鮮共産党の日本における党員ということではなく、日本共産党の党員であったわけで、『第三国人』――戦勝国民でもないが敗戦国民でもない――という立場にあってさまざまな自由があったことも手伝って、党のために財政面などで非常に力になってくれた」(『戦後日本共産党の二重帳簿』現代評論社)
と振り返っている。
GHQは1945年11月1日、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」を発令し、その中で「朝鮮人を『解放人民』として処遇すべきである」とした。そしてその後、占領下の日本に居留する旧外地の台湾・朝鮮人などを「THIRD NATIONALS(第三国人)」と呼んだ。現在、「三国人」は蔑称のように捉えられることがあるが、占領下の日本で、解放人民である朝鮮人が、連合国民ではないが敗戦国民の日本人とは異なる「特別の待遇」を受けていたことを表していた。
戦前からの共産党員は少数
それにしても、なぜ朝鮮人の多くが共産主義者になったのか。
朝連に参加した朝鮮人の証言を集めてみると、意外にも戦前から共産党員であった人は少数で、戦時中は軍国少年だった人が多い。
筆者が直接インタビューをした朝連関係者の多く――後に祖国防衛隊や、日本共産党の支部や山村工作隊で活躍した人でさえも、「終戦」については、「悲しくて泣いた」「寂しかった」と答えている。
朝鮮民族の多くは、第2次大戦では旭日旗を背負って闘い、前線においても銃後の守りにおいても、大日本帝国の最大の協力者であった。35年間の皇民化政策により、敗戦のその時まで帝国臣民だった。
朝鮮人連盟の青年部長を務めた宣允植(後の浜松朝鮮高校校長)は、祖父から日本が負けたことを聞かされた時の気持ちを次のように語っている。
「喜びともつかん、悲しみともつかん。しかし、日本の戦争が負けたのかという一つの、衰え死んでいく人間の挽歌のような気持ちも。ともあれ、そりゃ複雑な気持ちだよ。数え十五から二十までというのは、物心ついて色々勉強した時代だから、敗れ去るものに対しての惜別の気持ちもまたあるんだよ」(吉見義明「宣允植氏からの聞き取り〈第1回〉」『中央大学商学論纂』第50巻)
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