「在日本朝鮮人連盟」誕生の歴史 共産主義者が反共民族派の幹部を拘束・監禁
革命運動そのもの
朝鮮人共産主義者たちは、まず民族内の戦争を始めた。思想や大義の異なる民族団体を糾合し組織を拡大していく方法論は革命運動そのものだ。敵対組織には容赦がなく、事務所や財産の収奪は暴力的なものだった。警察庁警備2課の篠崎警視は、当時の様子を前掲書で次のように記録している。
「(一)元、興生会役員乃至親日的指導者に対しては民族反逆者の烙印を押し、その『リスト』を作成してこれらの者を拉致してリンチを加える等血の弾圧をなし
(二)興生会関係その他の建物、財産、簿冊の不法占拠等彼らの所謂接収運動が敢行され
(三)戦時中朝鮮人労務者が就労していた工場事業場に対し、退職金、その他待遇改善の不当要求乃至は罷業を煽動し
(四)保安隊、治安隊等の自衛隊を組織し各種の警察権類似行為乃至は集団暴力行為を反覆し
(五)警察の各種取締に対しては熾烈な反抗乃至は集団暴行をなし、延いては警察署に押しかけて犯人を奪還する」
激しい権力闘争
その後、朝連は戦後の混乱に乗じて親日民族派団体組織の事務所に突如押しかけ、半ば乗っ取りのような形で、看板を在日本朝鮮人連盟に書き換え、事務所や財産を接収していった。やがて始まる朝鮮戦争の予兆ともいえるような、激しい権力闘争が繰り広げられたのである。
「中央興生会では十一月十五日の理事会で、日鮮協会と改称し、興生会の事務を継承することを決定通達した。ところが中央でも各府県でも、朝鮮人連盟などから『事務所の明渡しや備品と資金の引継』を強硬に要求されるなどごたごたが続発したので、翌二十一年一月ついに解消を決定通達し、その処置の一切は各府県当局に委任された。こうして興生会は、当初の朝鮮人の処遇改善案に呼応して、画期的な活動と企図をもちながらも、敗戦を契機としてその活動の転換もできないまま、ついに解消されていった」(坪井・同前)
ちなみに坪井によれば、日本政府は何とかして在日本朝鮮人連盟を親日派の朝鮮人の管理下におきたいと考えていた。だが敗戦後の政府は、日本人の大陸からの引揚げと、朝鮮人の半島への帰還で手一杯で、それまで日本政府とともにあった親日派朝鮮人までは支援できなかったという。混乱期の政府は、巨大な組織が朝鮮人共産主義者の傘下で産声を上げるのを、ただ見守るしかなかったのだ。
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