「在日本朝鮮人連盟」誕生の歴史 共産主義者が反共民族派の幹部を拘束・監禁
共産主義者が一大組織を乗っ取り…
だが権逸はギリギリのところで助け出された。
「怒鳴るような声とともになだれこんできた人々がいた。趙得聖(当時の朝連準備委員長)と李康勲の両氏が青年たちを動員して駆けつけてくれたのだ。万一、この時、この人々が来てくれなかったら、私の命は救われなかったかも知れない。今でも私は生命の恩人であるこの両氏に深く感謝している」(権逸・同前)
そして権逸はこう書く。
「今日の彼ら左翼の団体である『朝総連』はこの『朝連』を母体にしたものであり、『民団』はこのとき追いだされた私たちが、朝連に対抗するため、『建同』の過程を経て翌年十月三日に発足させたものである」
かくして金斗鎔ら共産主義者たちは、在日本朝鮮人連盟という一大組織を乗っ取り、結成式における白日のクーデターで権逸たち親日派を追い出して組織を制したのである。米国国立公文書館に保存されている数多くの在日本朝鮮人連盟に関する史料を紐解くと、どれも「Communist Dominated Organization(共産主義者の支配する組織)」(RG331 SCAP)と定義している。
穏健分子は追放
こうした大謀略はいつ企てられたのであろうか。権逸はこう書いている。
「共産主義者たちは、この日のクーデターのため、細かい事前計画を立てていたことが後でわかった。世に『板橋会議』という陰謀会議がそれで、十五日総会の初日が終わったあと彼らは金天海、金斗鎔を中心にした朴恩哲(越北)、韓徳銖(現朝鮮総連議長)等二十余名が板橋の李秉哲の家に集まって、暴力で反共民族派を追いだすことを決議したというのである」(権逸・同前)
警察庁警備2課の篠崎平治警視によれば、共産主義者らの活動に大きな影響を与えたのは、10月10日の政治犯釈放だったという。
「在日本朝鮮人連盟に共産主義思想が著しく扶植され、赤化した背景に、日共幹部金天海氏の存在がある」(篠崎平治『在日朝鮮人運動』令文社)
在日朝鮮人共産主義者のカリスマ金天海は10月10日に府中刑務所から出獄すると、在日本朝鮮人連盟の最高顧問に就任した。
金天海の指導下に在日本朝鮮人連盟が入ると、金天海は在日本朝鮮人連盟が、日本共産党の事実上の外郭団体化することを計画した。
「これが為には比較的穏健な民族主義的幹部及び親日派幹部の存在が邪魔になるので、その追放を画策、左翼的反日分子を煽動し、彼等に対する悪らつなデマ宣伝を行った。この為『朝連』結成の発起人であった権赫周(権逸)、李海三等の親日的穏健分子は遂に民族反逆者の汚名をきせられ『朝連』陣営より追放された」(同前)
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