ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】

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持ち出したメジロの鳥籠

 1945(昭和20)年8月15日。

「昭和天皇の玉音放送は学校から帰って、家でラジオを1人で聞いていた気がする。ザアザアという雑音だらけでよく聞き取れなかった」

 母ともさんは「日本は神風が吹くから絶対に負けない」と信じていたそうだ。「『撃ちてし止まん』と言われていた時代でしたからね」とひで子さん。

 1946(昭和21)年、昭和天皇は「人間宣言」をして全国を巡る。

「浜松にも来られた。中学1年の頃だったかな。でも、大人たちからは『天皇陛下を見ると目が潰れる』と言われた。畔に並んで待っていたけど、やっぱり目を開けて見ましたよ。陛下の御様子は忘れましたけどね」

 戦後、新たな学校制度が施行され、姉と弟は浜名郡赤佐村立赤佐中学へ入学した。ひで子さんが3年生だったある日、運動場で屋外映画鑑賞会があった。生徒たちが筵(むしろ)を敷いて娯楽映画を楽しんでいた時のこと。校庭の木に登っていた子が、「火事だーっ」と叫んだ。見ると住んでいた家の方向だった。「大変だ、巖、帰るよ」とひで子さんは弟の手を引っ張って走って帰宅した。家の3軒ほど隣の自転車屋が燃え盛っていた。「延焼するかもしれない」と、ひで子さんは箪笥などから大事なものを引っ張り出して持ち出した。巖少年はおろおろしていたが、意を決したように家に飛び込むと、鳥籠と炒り鍋を持って飛び出してきた。鍋には炒った落花生が入っていた。翌日に予定されていた運動会に持っていくおやつだった。

 幸い、死者もけが人もなかった。鳥籠にはメジロがいた。

「巖はメジロと一緒に芋畑にしゃがみ込んで怖がって震えていました。巖が大事に飼っていたメジロは友達がくれたもので、サツマイモをふかして餌にしてやったり。まあ、子供の頃から優しい性格の弟でしたね」

 しかし、火事の類焼でせっかく庄市さんが買い取っていた自宅は消失し、結局、一家は中瀬の狭い家に戻るしかなかった。体が弱い庄市さんは寝込むことが多く、基本的に家庭は裕福ではない。長男の茂治さんは働き出し、次男の實さんは養子に出る。学業優秀だったひで子さんだが、「高校とか上の学校に進学したいなんてとても言い出せませんでしたね」。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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