ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】
空襲と大地震
家族愛に包まれ、すくすくと育つ姉と弟。しかし、戦局は悪化する一方だった。陸軍浜松飛行場や中島飛行機などの軍需工場もあった浜松市は、1944(昭和19)年11月の空襲を皮切りに、1945(昭和20)年2月から7月までに合計6回にわたる激しい攻撃を受け、終戦までに当時、人口17万人弱の浜松市で約4000人近くが落命している。米国の戦略爆撃機B-29はもちろん、最後の7月の攻撃では沖合の米英艦隊からの艦砲射撃を受けている。
最初の空襲で「工場や海に近い家は危険」だと感じた袴田一家は、母親の実家のあった浜北町(現・浜松市浜北町)の中瀬というところの親類宅に身を寄せた。
「狭い家に大勢で転がり込んだものだから先方も大変。私たちは遠慮がちに小さくなっていましたよ」
次第に食糧も不足する。「疎開後は雄踏のように貝や魚も獲れないし、米の配給も少ない。おなかがすいたらカボチャかサツマイモしかなかった。そのせいで私は今もカボチャとサツマイモだけは食べる気しないんですよ」と振り返る。どうしても狭くなり、一家での「居候同居」が無理になる。兄の茂治さんと實さんは残ったが、両親とひで子さん、巖さん、二女の5人は、父の弟の家があった浜名郡赤佐村(現・浜松市浜北区於呂)に長屋の一角を借りて移った。
さらに浜松市は天災に襲われる。12月7日の昼過ぎに発生した「昭和東南海地震」だ。紀伊半島東部の熊野灘を震源とし三重県の津市や四日市市などで震度6、名古屋市や浜松市などは震度5だった。津波も発生し1223人が死亡したとされる。だが当時、大地震があったことは軍から極秘とされ、市民は口外を厳重に禁じられた。東海地方で多くの軍事施設が壊滅的被害を受けていたことを米国に隠すためだった。
頻発する空襲で防空壕生活になる。しかし、体を動かすことが大好きな少女だったひで子さんは、狭い防空壕が嫌でたまらない。ある時、母の制止を振り切って自宅に戻って1人で寝ていた。
「朝になると箪笥に囲まれていたんですよ。寝ている間に母がタンスを移動させて、地震で屋根が落ちてきても大丈夫なようにしてくれていたんですね」
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