日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

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「在日本朝鮮人連盟」へ

 権逸はこうした混乱を収束させるため、他の中小の団体や組織と手を取り、朝鮮人団体を一つに集結させようと動き始めた。金斗鎔をはじめとする共産主義者とも膝を交じえ、協議を始動させたのである。

 ミズーリ艦上での降伏文書の調印式から、1週間と1日が経った1945年9月10日、東京代々木の青莪寮で「在京朝鮮人全国協議会」が開催された。ここには関東7団体の関係者、関西から60名の在日主要人物が集まった。民族派の権逸や共産主義者の金斗鎔はもちろん、相愛会、協和会(興生会)、一心会など、これまで大日本帝国政府に協力してきた愛国団体の幹部も多数出席した。

 ここで「在日本朝鮮人連盟結成中央準備委員会」が発足する。日本国民が敗北感に打ちひしがれ茫然自失していたその時、解放された民族として高揚していた朝鮮人は、「在日本朝鮮人連盟」という一大組織の結成に向けて第一歩を踏み出したのである。

 会の終わりには中央委員が選出された。『権逸回顧録』によれば、ここで決まった役員は以下の通りである。

準備委員長 趙得聖

副委員長 権赫周(権逸)

     金正洪

総務部長 金麗煥

  次長 朴斉燮

地方部長 康慶玉

  次長 金薫

外部部長(兼)権赫周

  次長 金鎮

情報部長 李能相

  次長 申鴻シク

財務部長(兼)金正洪

  次長 卞栄宇

厚生部長 金光男

  次長 宋明九

文化部長 南浩栄

  次長 柳茂

大勢を占めた親日派

 委員長の趙得聖(白川一宇)はハーバード大学卒の民族派、副委員長の権赫周(権逸)は親日派、金正洪(清水武雄)は共産主義者である。金は財務部長を兼任することで組織の資金を掌握した。

 大日本帝国政府を支えた愛国団体の指導者たちと朝鮮人共産主義者が渾然一体となって入っているが、親日派が大勢を占めた。そしてこの時点では「皆で朝鮮半島に帰ろう!」という目的のもと大同団結していた。朝鮮人の生命と財産を保護し、無事、半島に帰還させることが最優先の課題だったのである。また日本に残ったとしても、日本で育った在日2世が少しでも朝鮮語を話すことができるようにするなど、日本での民族教育も重視された。

 そして準備委員会事務局は新宿角筈の朝鮮奨学会のビルに置くことが決まった。

 呉圭祥の『ドキュメント在日本朝鮮人連盟』(岩波書店)には、

「五回に及ぶ中央準備常務委員会、九月一一日、九月二五日の二回の中央準備委員会を経て、地方組織と緊急な問題をある程度整理した後、九月二八日、一〇月一四日の全国大会準備委員会で、宣言、綱領、規約などを作成して大会を迎える準備をした」

 とある。

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