日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

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生粋の共産主義者

 この権逸とは対照的に、玉音放送に快哉を叫び、戦前から志してきた革命の好機が到来したことに意を強くしたのは、朝鮮人共産主義者の金斗鎔である。

 金斗鎔は東京帝国大学文学部を中退、日本プロレタリア芸術連盟に所属して「戦旗」「プロレタリア芸術」等で執筆活動を行い、朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部の設立とともに、機関誌「芸術運動」「無産者」を編集した。生粋の共産主義者である。

 1929年から労働運動に関わり、「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか?」(同年11月)を執筆、工場内の日本人と朝鮮人労働者が連帯し闘争をするべきである、と訴えた。

「私が第一回目に入獄したのは1930年である。ところがその当時私の知っていた朝鮮に対する知識とゆうものは、実に微々たるものだった。それはせいぜい公式的な一般原則的なものにすぎず具体的なものとなると何も知っていなかった。だから予審廷で朝鮮総督政治について語ってくれと、判事からいわれても、それを具体的にゆうことができないような有様だった。そこで私はこれではいかんと思った。そして自分の無学を恥じた。その当時においては私ばかりでなくすべてのわれわれの仲間はみなこうだった。そして私は1934年出獄すると同時に早速朝鮮に関する勉強をやり始めた」(金斗鎔『朝鮮近代社会史話』郷土書房)

次々誕生した朝鮮人団体

 金はその後、産別労働組合の設立を目指すなかで何度も投獄される。終戦時は表面上、転向してはいたものの、終始革命家の志を変えることはなかった。

 そして日本の敗戦と共に「朝鮮の大日本帝国からの完全な独立」と「人民共和国建設」の革命を成し遂げるために立ち上がる。

 金は1946年2月1日に創刊した日本共産党の中央機関誌「前衛」で、終戦時の「日本における朝鮮人問題」についてつづっている。

「日本における朝鮮人問題は一つの民族問題である。それは朝鮮内に於ける朝鮮民族の政治的動向と結びつき、他方に於ては日本内に於ける革命状態と結びついてゐる。過去朝鮮民族が日本帝国主義の支配下におかれてゐた時代には、それは反帝国主義的闘争、民族解放闘争の問題であつた。しかし現在に於ては、それは朝鮮の完全な独立、人民共和国建設、の問題となつてゐる」(金斗鎔「日本における朝鮮人問題」「前衛」1946年2月号)

 そこで金は同胞を速やかに結集させ、まず「政治犯釈放運動促進連盟」を結成、続けて次々に朝鮮人団体を作った。

「東京では、九月十日に金斗鎔、朴哲在、金文朝らを中心に『在日朝鮮科学技術団』が組織された。また同一六日には神田のYMCAで金斗鎔、南浩栄、朱基栄らの呼びかけによる『在日朝鮮青年学徒有志大会』がもたれ、約四百名が参加して朝鮮解放と独立の気勢をあげた」(坪井・同前)

 朝鮮人は政治と権力を好む。派閥争いも絶えず、戦前戦中を通じ、国内には留学生と青年団体、宗教団体、労働団体、思想団体などあらゆる大義をもつ組織や団体が群雄割拠していた。同様にこの終戦時にも、中小さまざまな組織が誕生していったのだ。

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