日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

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朝鮮民族としての解放の喜び

 その石原莞爾の実の弟がわざわざ新型爆弾が落ちたことを知らせに来たのだ。当時から権逸はよほどの重要人物であったのだろう。

「日本の無条件降伏を知らせる裕仁天皇の震える声が放送されたのは、湯宿に到着して二日後の八月十五日のことであった。戦争は終わった。民族は解放された。虚脱感とともに、これで生き残ったという安堵感がまっさきに起きた。日本の敗戦は予想していたことだが、私たちは、米軍が日本本土に上陸して日本軍と一大決戦を展開するものと信じていたから、このような形で戦争が終了するとは想像もしていなかった」(権逸・同前)

 愛国者として日本に仕え、政府に厚遇され信頼されていた人物も、朝鮮民族としての解放の喜びを感じていた。

「私たちの民族は解放された。そして私は死をまぬがれた。民族が解放され改めて生を得たことは、この上ない感激であった。四、五か月のあいだ一日も休むことなく続いていたB29の爆撃に、私たちは何時死ぬか分からないと、戦々恐々として過ごしてきた。その恐ろしい爆撃はもうないのだ」(同前)

在日朝鮮人たちの組織化

 もっとも権逸は安堵しているだけではなかった。

「解放の喜びもつかの間で、私は複雑な気持ちに陥った。解放になったが私はこれからどうすればよいのか。自分なりに満洲で、あるいは日本で、うちひしがれた同胞の権益を保護するため出来るだけのことはしてきた。しかし、誰が私の努力を認めてくれるであろうか。大日本帝国の大陸侵略の前進基地であった満洲で司法官としての禄を食み、また短い期間ではあったが日本政府の傘下団体で仕事をした。そしてその施策に呼応してきた自分ではないか、このような一連の過去が慌ただしく暗い影になって目の前をかすめた。私は、人生の重大な岐路に立たされているのを感じた。本国に帰るべきか。このまま日本に残るべきか。日本に残るとすれば、しばらくはすべての活動をやめるべきか。それとも、今までのように在日同胞のことに関与していくべきか。私は深刻な悩みを二~三日繰りかえしたあげく、日本に引きつづき在留し、在日同胞のため努力する決心をした。同胞たちの将来のためにつくすのが、“時”が私に与えた使命であると思った」(同前)

 こうして権逸は在日朝鮮人たちの組織化を始めていくのである。

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