「仮面夫婦」にも色々… 52歳夫が“妻の方が上手だ”と思う理由

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「仮面夫婦」というと、昨今はモラハラ夫に耐えて生活のために結婚生活を維持する夫婦のことを称して言うケースが多いが、必ずしもそうとは限らない。お互いの自由をキープしながら、“社会的最小単位”の形もとっておく男女もいる。【亀山早苗/フリーライター】

「うちはもともとオープンマリッジでもないし、お互いにごく普通の夫婦で、ごく普通の家庭生活を築いてきたつもりなんです。今だって決して仲が悪いわけではない。でもいつの間にか、ふたりとも恋は外でするという気持ちになってしまったようですね。何かあったら僕は妻を介護するつもりでいますけど、妻はしてくれるのかなあ。それがちょっと不安ですね」 

 人間、いつまでも元気ではいないからと、大林尚吾さん(52歳・仮名=以下同)はつぶやいた。30歳のときに、3年にわたってつきあっていた1歳年下の美紀子さんと結婚。現在、21歳になるひとり娘がいる。

「僕は地方の農家の三男坊なんです。僕が産まれたとき、兄ふたりは10歳と8歳。年も離れていたし近くに幼稚園もなかったから、祖父母と両親と一緒に田んぼに行って犬と遊んでいた幼少期でしたね。小学校も歩いて30分くらいかかるんですが、学校は楽しかった。めいっぱい遊んで中学を卒業しました」

 地元の県立高校に進学。中学生から始めたサッカーに夢中だったから、勉強はいつでも下から数えたほうが早い状態だった。両親は勉強を強要しなかったが、すでに東京の大学を卒業して有名企業に就職した長兄が、「国立でなければ大学には行かせられない」と言い出した。

「その言葉を聞いて突然、開眼したというか。次兄もすでに関西の大学を卒業して就職している。ただ、次兄はいつか実家に帰って農業を継ぎたいと言っていたから、逆に僕の居場所はなくなると感じました。何かやりたいことが見えていたわけじゃないけど、とりあえずは国立大学を目指すしかないなあ、と。高校の授業にはついていけなかったので、まずは中学の教科書をもう一度勉強し直しました。もちろん独学で」

 サッカー以外は勉強漬けの日々だった。そして無事に国立大学に合格し、実家を離れた。

 大学時代はアルバイトと勉強に明け暮れた。サッカーの同好会には入っていたが、ときおりしか練習には参加できなかったという。次兄が帰郷して農家を継いだので、彼は本当に帰るところがなくなってしまったという危機感があった。

「兄たちが継がなければ、僕は農業をやってもいいなという気持ちがどこかにあったんですよね。いや、農業は大変だけど、オヤジたちを見ていると、なんとか暮らせるんじゃないか、と。甘いですよね。でも戻って生きる道が絶たれたので、そこで初めて、自分の人生、どうするのかと真剣に考えるようになりました」

「美紀ちゃん」

 大学を出て就職するのか、どういう会社を選ぶのか、あるいは起業する手もあるのではないか、何か資格を得たほうがいいのか。尚吾さんは、大学にいるうちに宅建士(宅地建物取引士)をはじめ、国家資格をいくつか得た。さらにやはり英語くらいできなくてはと猛勉強を重ねてTOEICにチャレンジ、最終的には800点近い点数をとることができた。

「短期間ではあったけどアメリカ留学もして、充実した4年間でした。ゼミの教授とも親しくさせてもらったし、なにより自分がやればできると思えた時期でした。まずは企業に属して、そこから独立することを目標にしました」

 試しに外資系金融機関を受けたら合格。“憧れの”外資だったが、初年度からかなりのハードワークだったという。彼は職場近くにアパートを借りて、必死に仕事をした。

「僕は自分が人より理解が遅いとわかっていました。だから人の3倍くらい努力しないと人並みになれない。世の中には何の努力もせずに才能を開花させる人がいますが、僕は凡才なんです。だから必死になるしかなかった」

 幸い、彼の場合は努力が実を結んだ。毎年、収入はアップしていき、貯蓄額も増えていった。

「そのまま絶好調の30歳のときに結婚したわけですが、急に緊張の糸が切れてしまったんです。新婚ほやほやなのに、美紀ちゃんに『仕事やめていい?』と言い出して(笑)。そのときの美紀ちゃんの答えが『いいよー』という感じ。しっかりした女性だとわかっていたけど、想像以上に太っ腹でした」

 美紀子さんは帰国子女で、輸出入関係の仕事をしていた。頭の回転が速く、若くして職場のプロジェクトリーダーを任されるような人だった。尚吾さんにいわせると、「美紀ちゃんこそ非凡な人。仕事の話を聞いていると、人並み以上のことがさらっとできちゃう。羨ましいくらいです」だそう。

 彼はずっと妻を「美紀ちゃん」と呼ぶ。呼び捨てにしたことはない。妻に敬意を抱いているし、親しき仲にも礼儀ありだと思っているからだという。

 彼はその後、起業の準備にとりかかる。人脈だけが頼りだった。学生時代の恩師にも相談、会社の仲間や先輩にも話をもちかけた。

「生意気な言い方ですが、自分が凡才だとわかっているから、地に足のついた仕事をしたかった。できれば自分も楽しめて人も喜んでくれるような地道な仕事。そこで目をつけたのが介護関係でした」

 詳細は伏せるが、広くいえば介護業界に関係する業務を主とした会社を、尚吾さんは仲間3人と立ち上げた。細々とでもいいから、長く続けられて誰かが喜んでくれることを目指したかったのだという。

「外資系の会社でかなりの年収をもらうところまでいきましたが、正直言って、あまり楽しくなかったんです。派手に飲み歩いたりするタイプでもないし。そのあたりのことは美紀ちゃんとはよく話しました。彼女は豪放磊落というか、がつんと稼いでがつんと遊ぶみたいなタイプ。お互いに性格の違いをおもしろがっていました」

 31歳のとき娘が産まれた。尚吾さんは仕事をセーブしながら育児を楽しんだ。美紀子さんも同じように競って娘をかわいがった。あのころがいちばん楽しかったかもしれないと尚吾さんはつぶやいた。

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