〈鎌倉殿の13人〉“亀の前事件”だけじゃない頼朝の華麗にして厄介すぎる女性遍歴

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義時の妻・姫の前

 確かな史実とされる、頼朝の女性遍歴は以上だが、伝承の世界では、まだまだ頼朝は「脛にキズ」を持つ身だ。

 薩摩(鹿児島)の名門として知られる島津氏や、豊後(大分県)の名家大友氏には、一族の始祖が、実は頼朝のご落胤(隠し子)だったという言い伝えがある。島津氏の初代とされる惟宗忠久は、頼朝の乳母であった比企尼の娘、丹後局と頼朝との間に生まれた子どもで、大友氏初代の能直も波多野経家の三女利根局と頼朝との間に生まれた子どもだという。

 ともに、史実としてはまったく確認できない言い伝えに過ぎないが、頼朝が複数の女性と浮名を流すような「前科」があるからこそ、成立した伝承であろう。 

 もう一つ。政子の弟で2代目執権として幕府の屋台骨を支えて北条義時は、比企氏の娘で幕府の女官であった姫の前という女性を妻とした。この姫の前、大変美しい女性だったようで、思いを寄せた義時が何度も恋文を送ったが成就せず、見かねた頼朝が間を取り持って義時の妻としてあげたとされている。しかし、ここまで頼朝の女性遍歴を眺めてくると、そのような美しい女性を身近に置いていた頼朝が、何もしなかったとは信じられない。「何かあった」のではないかと思う方が自然だろう。

 当時の頼朝は、草創期の幕府権力を確かなものとするため、有力御家人同士を婚姻で結び付けるという融和策を取っていたようで、姫の前と義時の結婚もその一環だろう。義時は、頼朝にとって義理の弟であり、もっとも信頼すべき部下でもあった。自ら寵愛した女性を、言葉は悪いが「下げわたす」ことで、より主従の絆を深めようとした可能性もある。

 あくまでも推測に過ぎないが、この姫の前も「候補者」の一人と考えてもよいだろう。

安田清人
1968年、福島生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊「歴史読本」(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集、執筆、監修などを手掛けている。

デイリー新潮編集部

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