〈鎌倉殿の13人〉“亀の前事件”だけじゃない頼朝の華麗にして厄介すぎる女性遍歴
NHK大河ドラマは、世間の歴史好きが好む戦国時代と幕末を取り上げるケースが非常に多い。現在放送中の「鎌倉殿の13人」は、久しぶりに平安時代末から鎌倉時代初期という、中世前期を取り上げるドラマということで、この時代特有の時代状況や風俗、武士の在り方などが新鮮な驚きをもって受け止められ、話題になっている。【安田清人/歴史書籍編集者】
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「亀の前事件」の時代背景
「鎌倉殿の13人」の第12回「亀の前事件」(3月27日放送)では、源頼朝の浮気の顛末が描かれた。平安時代の中頃まで、高い身分の人々の間では、夫が妻の元を訪れるが同居はしないという妻問婚が主流で、勢い、夫が複数の妻を持つ一夫多妻制が常識であった。
しかし、徐々に時代が変わり、夫と妻が同居するようになり、その結果、一夫一妻の時代へと移り変わっていった。頼朝はそもそも幼少時代を京都で送った貴人なので、妻や妾を複数持つという「常識」のなかで育った。頼朝には何人もの兄弟がいたが、母親がてんでバラバラだったことはよく知られている。頼朝が嫡子(跡継ぎ)となったのは、母親が熱田神宮の大宮司、藤原季範の娘という出自の良い女性だったからで、弟で平氏追討に大きな役割を果たした範頼などは、東海道筋の遊女との間に生まれたとされている。つまり、頼朝の父義朝も立派な好色家(?)だったわけだ。
しかし、当時の東国では一夫一妻が常識となりつつあったのだ。つまり、頼朝と政子という夫婦は、互いの生育環境の違いから、「夫婦観」に大きな違いがあった。
頼朝の「浮気」については、そのギャップを踏まえて考える必要があるのだ。
「うわなり(=後妻)打ち」とは
さて、頼朝の妻北条政子が第2子(のちの2代将軍源頼家)を妊娠中に、頼朝は亀の前という女性と密通していた。良橋太郎入道という人物の娘だという以外、何もわからない女性だが、おそらくさほど身分は高くなかっただろうと推定されている。容貌にすぐれ、また柔和な性格の女性だったと、鎌倉幕府の準公式記録である『吾妻鏡』には記されている。頼朝が伊豆にいたころからの付き合いだったらしく、鎌倉に移ってからも鎌倉の郊外に呼び寄せ、家来の家にかくまっていたという。
妻が妊娠・出産で家を空けているとき、これ幸いと浮気をする男性は現代でもいるだろう。妻の出産後にそれがバレて即離婚などという話も週刊誌ネタとして目にする。政子は寿永元年(1182)8月に、比企氏の館で無事に出産を果たして鎌倉の屋敷に帰宅する。しかし、その後も頼朝の浮気は続き、亀の前との関係は御家人たちの間では周知の事実だったらしい。悪いことはできないもので、当然、政子の耳にも入った。政子の父北条時政の後妻で、政子の継母にあたる牧の方(「鎌倉殿の13人」では「りく」)が告げ口したらしい。
激怒した政子は、牧の方の兄にあたる牧宗親に命じて、亀の前の住む家を破却してしまったという。このエピソードは、政子がいかに嫉妬深く、勝ち気で、荒々しい女性だったかを語るものとして喧伝されてきた。
しかし、近年の女性史や家族史の研究によると、これは「うわなり打ち」という習俗のひとつだったと考えられている。うわなりとは「後妻」のこと。これに対して前妻のことを「こなみ」と呼ぶ。男に離縁された前妻が、女の誇りをかけて後妻に乱暴を働くことを「うわなり打ち」とよび、社会から容認されていたというのだ。
平安時代後期から、おそらく室町時代まで続いたと推定されている習俗で、前妻のプライドを満足させ、前妻と後妻の「家同士」の争いが大事になるのを防ぐ意味もあったのだろう。「うわなり打ち」は、中世という時代特有の社会慣習となっていたらしい。
つまり、政子が人を使って夫の愛人に乱暴を働いたのは事実だが、それは政子の個人的な性格に起因するものではなく、この時代の女性に共通する常識の範囲内の乱暴だったのだ。また、乱暴とは言っても、実際の「うわなり打ち」は家の門を壊す程度の形式的なもので、前妻の鬱憤をはらすには、その程度で十分だったのだろう。
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