ジャイアント馬場の野球選手時代、実はすごかった? 2軍で見せた驚異の成績と不運(小林信也)
風呂場で大怪我
1957年10月23日、中日戦で馬場はプロ入り初めて先発投手を任された。相手の先発は球界を代表するエース杉下。巨人の優勝が2日前に決まっていたから、巨人の水原茂監督(当時)が実績のない馬場を先発させたのは、相手のエース杉下に200勝をプレゼントするための配慮だった、との説がある。だが、馬場には関係ない。戦力として認められるための貴重な舞台だ。馬場は5回まで1失点に抑えたが、結局負け投手になった。それが杉下の200勝目で、馬場にとっては唯一、黒星がついた試合となった。
1軍の通算登板3試合、0勝1敗、防御率1.29。これだけ見れば立派とはいえない数字だが、2軍の記録には驚嘆させられる。56年12勝1敗、57年13勝2敗。2年続けて抜群の成績を残している。
58年に肩痛でマウンドを離れると、59年8月に戦力外通告を受けた。馬場は三原脩が新監督になった大洋ホエールズ(現横浜DeNA)に誘われ、春のキャンプでテストを受けた。快速球を見た三原は採用を決めた。直後、宿舎の風呂場で立ちくらみを起こし、転んでガラス窓に突っ込んだ。馬場は左腕に20針も縫う大怪我をし、左手の中指と薬指が伸びたまま動かなかった。グローブが握れない。それで大洋入団は見送られ、馬場は22歳にして行き場を失った。(次回に続く)
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