ジャイアント馬場の野球選手時代、実はすごかった? 2軍で見せた驚異の成績と不運(小林信也)
後にプロレスラーとなり、「ジャイアント馬場」と呼ばれる馬場正平は、野球が好きでたまらない少年だった。
1938年1月、新潟県三条市で、八百屋の次男に生まれた馬場は幼い頃、身体が小さい方だった。小学3年生の頃から急に背が伸び、5年時には175センチになった。野球を始めた馬場は少年野球チームのエースとして活躍。中学では新潟県中越地区大会で優勝した。
私は三条市にすぐ近い長岡市で生まれ育った。同じ中越地区の中学で野球をやった後輩だから、中越大会で優勝する難しさを知っている。私は市内大会で敗れ、憧れの中越大会に出場できなかった。
すでに2メートル近い長身となった馬場は、さあ高校で硬式野球をやるぞ! 意気込んで三条実業に入学した。ところが、思いがけない現実が馬場と野球を引き裂いた。馬場自身の著書『王道十六文』にその理由がつづられている。
〈高校に入りさえすれば無条件で硬式野球が出来るものと決めこんでいた私は、ある一つの現実にぶつかって、言いようのないショックを受けた。私の足に合うスパイク・シューズがないのだ〉
15歳の春。馬場は野球への思いを胸の奥にしまい込み、野球部をあきらめて美術部に入った。その時の心情をこう書いている。
〈野球部からも、バスケット部からも熱心な勧誘があったが、バスケットのシューズだって私の足に合うものはなかった。私はつくづく大足を呪ったが、シューズがないから入部できませんとは、シャクでシャクでとても言えたものではない。
「僕はもうスポーツはやめて、絵に専念したいんです」などとカッコをつけ野球部やバスケット部の練習も、興味のないふりをして見ないようにしていた〉
[1/3ページ]