リングで土下座も…「たけしプロレス軍団」参戦にファンが“部外者”を拒絶 伝説のカメラマンが明かす暴動の舞台裏
「これが凶器になるのか……」
悪役レスラーがコスチュームに仕込む、ナイフやフォークのことではない。スポーツ観戦では欠かせない生ビール。そのカップを複数固定する、厚紙のカップホルダーである。それが高速度で投げられると、大変な凶器となるのだ。
私の目の前で、まぶたを切って血を流し、泣きじゃくる少年がいた。足元には血の付いたカップホルダー。大丈夫だろうかと思いながらも、我が身にもいろいろなものが飛んでくる。慌ててその場を退散した。
場所は、新日本プロレスの試合会場である――。
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新日本プロレス、全日本プロレスが共に創立50周年となる今年、元内外タイムス写真部長・山内猛氏が『プロレスラー―至近距離で撮り続けた50年―』(新潮社)を刊行した。タイトルにある通り、新日・全日の歴史と共にプロレスを撮り続けた山内氏は「カメラを手にした千手観音」の異名をとり、数々の昭和・平成のプロレス名場面をその手中に収めてきた。著書では140点ほどの秘蔵写真と秘話が載っている。膨大なネガはもちろん、豊富な取材体験を基に、著書で紹介しきれなかった写真とエピソードを紹介する連載2回目は、新日本プロレスの試合会場で起きたファンによる暴動。その衝撃の舞台裏である。
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不透明決着に怒り
1984年6月14日。第2回IWGP優勝戦が蔵前国技館で開催された。カードは前年と同じ、アントニオ猪木 vs ハルク・ホーガン。第1回優勝戦は前回でも書いた通り、詰めかけたファンの期待を裏切る結果となっただけに、超満員の観衆は「今年こそ」の思いでいたに違いない。優勝戦にふさわしい好試合となり、延長に次ぐ延長。果たしてどのような決着をむかえるのか、私も夢中でシャッターを切っていた。
ところが再延長戦の最中に長州力が乱入。猪木とホーガンにラリアットを見舞い、猪木のリングアウト勝ち。この不可解な決着に怒った一部の観客が暴徒と化し、リングへ向かって缶類や紙コップ、紙テープや座布団などを投げ入れ、館内の大時計だけでなく、看板や客席も壊された。
この時、私は冒頭に記した子供を目撃した。勢いのついた厚紙は危ない。それは我々も同様である。紙テープの芯も直撃されると相当な痛みを伴う。何よりも困ったのは、ビールを浴びてしまい服はベトベト、臭いも残ってしまった。さすがにカメラにかかっては大変なので、必死の思いで控室に戻った。
ファンの怒りは収まらず、所轄の蔵前警察署から警察官が出動する騒ぎにまで発展した。
またも警察出動
2回目は1987年3月26日。場所は大阪城ホールだった。「INOKI闘魂LIVE PARTII」アントニオ猪木 vs マサ斎藤の一騎打ちに、突然、謎の「覆面海賊男」が乱入し、斎藤に手錠をかけて連れ去るという、これまた意味不明な展開に。斎藤はリングに舞い戻るが、度重なる反則で、試合は斎藤の反則負け。この試合結果にやはりファンの怒りは収まらず、一部が暴徒と化した。リングに椅子や飲み物を投げ込み、「金返せ!」コールの大合唱である。
私はこの日、共同通信社の大阪支社で写真の特送を頼んでいたので、騒然とする現場が気になったものの、共同へ向かった。
ところが着いてみると、共同のデスクが「今、大阪城ホールに大阪府警が入った!」という。ハイヤーを手配してもらい、大急ぎで戻った。既に観客は外に出され、現場検証が始まっていた。その様子を撮影して共同に戻ると、事件性があるので共同からも配信したいとのことで写真を1枚、提供した。翌日、一部の地方紙に私の写真が掲載された。
ビートたけしと暴動
3回目は、大阪の暴動から9カ月後、1987年12月27日に起きた。
会場は両国国技館。ビートたけしが創設した「たけしプロレス軍団(TPG)」が、猪木への刺客として送り込んだビッグバン・ベイダーを引き連れ、登場する。ベイダーはこの日が日本マット初登場である。しかし、この乱入に伴う突然のカード変更があり、満員の観客からは「帰れ!」コールの大合唱となった。それでも新日サイドが試合を強行すると、今度は「やーめーろ! やーめーろ!」の大コール。さらなるカード変更に加え、肝心の猪木がベイダーに惨敗すると観客の怒りは頂点。弁当箱、座布団、缶ビールと、おなじみの投げ込みが続くことになる。
明らかに84年の暴動を上回っていた。
「お願いします。物は投げないでください!」
田中秀和リングアナウンサーが、リングで土下座する。観客はそれでも収まらない――。さすがに身の危険を感じた私も、控室へと引き上げた。
その後、猪木が現れ、リング上から「次(の試合では)やってやるかー!」と絶叫。しかしファンは「今やれよ!」と応じない。物は投げ込まれ続ける。
この暴動の結果、新日本プロレスは相撲協会から会場使用停止の通達を受けた。
騒動=暴動の中心にはいつも猪木がいたが、今、改めて振り返ってみると、ファンも真剣にプロレスを見て応援していた時代だったのだと思う。もちろん物を壊したり投げたりという暴力行為は絶対に許されないが、いつまでも強い猪木を信じている「猪木信者」たちには認めることのできない試合=弱い猪木を見たくない=不可解な結末は許せない、ということだったのではないだろうか。猪木はじめ、レスラーたちのプロフェッショナル意識もすさまじかったが、ファンも負けてはいなかったのだ。
第3回へつづく(4月30日配信予定)
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※『プロレスラー―至近距離で撮り続けた50年―』で紹介されている写真を巡る秘話や、未掲載の写真などより構成。
山内 猛(ヤマウチ・タケシ)
1955年2月23日、神奈川県鎌倉市出身。大学卒業後、写真専門学校を経て1980年、内外タイムス社入社。編集局写真部記者(カメラマン)として、高校時代より撮り始めていたプロレスをメインに担当する。同社写真部長を経て、フリー。2022年4月現在は共同通信社配信の「格闘技最前線」で写真を担当する他、週刊誌等で取材を続けている。