娘の受験失敗で新興宗教、「教祖の愛人」になった妻 6年ぶりに帰ってくるも新たな不幸が…52歳夫が語る後悔
1年かけて説得も…
その日、帰宅した娘にそれとなく尋ねてみた。すると娘は、行くのは嫌だったけど何度か宗教の集まりに参加させられたと言った。母親に口止めされていたという。
「おとうさんに話したらめんどうなことになって、あなたの受験に差し支えると言われたと。『でもおかあさんは本気で信じている。信じないとあなたにも悪いことが起こるって』と娘は少し怯えていました」
さっき郵便受けにこれが入っていたと娘は団体からの郵便物を渡してくれた。その晩、忠輔さんは妻に穏やかに問いかけた。たまたま調子が悪くて早退したら、こんなものが来ていたと封筒を見せた。
「何か宗教に入っているのかと聞きました。別に阻止するつもりはない。きみが信じているなら、そのことを知りたいと言ったんです。妻は不審そうに私を見ましたが、私も取り込めると思ったんでしょうか、その宗教と教祖と呼ばれる人について話し始めました。どう聞いても賛同できなかった。例の赤富士の絵は50万だそうです。高いと思わず言うと、自分の貯金から買ったんだからいいでしょと。『私のことにはかまわないで。私はよりよい人生を送りたいの。それなのに娘は受験に失敗するし、私の人生計画は壊れた』と愚痴りました。『娘の受験は娘の人生であって、きみの人生ではない。50万あったら、オレなら家族のために使うよ』と言ったら、『私だって家族のために使ったのよ。これを毎日拝んでいるからみんな健康でいられる』と。科学的根拠はないねと言うと、『世の中、すべて科学で説明がつく?』って。前から言おうと思っていたんだけど、あなた、前世でよくないことをしているみたいとまで言われて、話す気をなくしました」
それから1年にわたって、折あるごとに忠輔さんは妻とその話をした。妻はパートで得た収入をほとんど団体に寄付しているらしいとわかり、彼はなんとかやめさせようと決めた。ところがそんな忠輔さんの意図を見抜いたように、ある日、妻がいなくなった。
「教祖のところへ行ったんだと思ったから、すぐに行きましたよ。教祖というのは60歳前後の白髪の男性で、会うと『私は来る者拒まず去る者は追わずという主義です』と。妻とふたりきりで話をしました。妻は『私はここにいる。もうあなたのことは信頼できない』と頑なに言うんです。娘も心配しているからと言っても、あの子も異端だからと言い放つ。決裂しました。私は無力だった。玄関を出て振り返ると、妻が廊下で教祖にしなだれかかっているのが見えました。そういう関係だったのか……。気づかなかった私がバカでした」
頭に血が上った忠輔さんは、とって返して大声で「珠美!」と叫んだ。出てきた妻に、「あの男とできているんだな」と聞くと、妻は無言で微笑んだ。その微笑が妖しく、なまめかしかったと彼は言う。
突然帰ってきた妻
それからは娘とふたりで暮らした。忠輔さんの父親が亡くなったこともあり、母がほぼ同居してくれたのも助かったという。娘は本当は寂しいのだろうが、もともと祖母とは仲がよかったため、精神的には落ち着いているように見えた。
「まれに珠美が帰ってくることがあって、娘はそのときのほうが動揺していましたね。母にはなるべく珠美と娘をふたりきりにしないよう頼んでおきました。私は娘を団体にとられるのではないかと不安でたまらなかった」
歓迎されていないとわかったのだろう、そのうち珠美さんは来なくなった。娘にはときどき連絡があったようだが、それも次第に途絶えていった。娘は公立高校を卒業し、私立の大学に入学した。母のことが心にあったのか、心理学を勉強したいそうだ。
「1年半ほど前ですか、突然、珠美が帰ってきたんです。母から連絡があって早退すると、珠美が寝込んでいました。母によればタクシーで帰ってきた、と。痩せこけて歩くのもやっとの状態だったからとにかく寝かせた。おかゆを作っても食べないと。私が話しかけると、やっと目を開けて『ごめんなさい』と泣き出しました。いいから、とにかく寝てなさいというしかなかった」
翌日、妻を病院へ連れて行った。妻が切れ切れに話したところによると、どうやら妻は団体を追い出されたらしい。それは「教祖の愛人」ではなくなったということだろう。パートも辞めたようだからお金を寄付することもできず、必要とされなくなったのかもしれない。
団体からはその後、妻の私物がダンボールに入って送られてきた。Tシャツやセーターが何枚かあったが、妻が家から持ち出したものだった。新たに洋服は買っていなかったのか、あるいは新しいものは送ってくれなかったのかわからない。
「妻はそのまま入院しました。膵臓がんで余命3ヶ月。緩和ケアを受けられる病院に転院させました。母は『今さら面倒をみなくても』と言ったけど、最後に放り出したら、例の教祖と同じじゃないですか。あれだけ弱った妻を憎む言葉も吐けませんでした」
コロナ禍で見舞いには厳しかったが、すでに余命宣告されているだけに病院も気を遣ってくれた。
「週に一度は娘も会うことができました。とはいえ、厳重に医療用マスクをつけて5分ほどです。私も何度か見舞いました。じっくり話はできなかったけど、かえってよかったのかもしれないと今になると思います」
じっくり話せたら、自分は妻を責めたかもしれないからと忠輔さんは寂しげな表情になった。
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