野村克也、知られざる「空白の3年」に迫る 「あの頃が一番楽しかった」と語った理由とは

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67歳の再出発

 本題の前に少しだけ、当時の状況を振り返っておこう。2001年のシーズンオフ、野村は3年間務めた阪神監督の座を「辞任」する。理由は単なる成績不振ではなく、夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕されたことだった。解任でもおかしくはなかったが、球団なりの温情から辞任という形を取った。

 のちに楽天の監督として復活した姿が印象的なだけに、忘れられがちだが、当時、これで野村の球界復帰は無くなったという見方は少なくなかった。野球界から居場所は消えた――これが多くの受け止め方だった。

 その野村に、自らの社会人チームの采配を任せたのが志太勤(しだつとむ)シダックス会長(当時)である。キューバから選手を獲得するなどユニークなチーム運営を展開し、日本選手権での優勝経験もあるシダックスだったが、当時は低迷していた。その再生を親友の野村に託したのだ。

 こうしてプロ野球界から去って1年後、野村はシダックスのGM兼監督に就任する。67歳の再出発。ここから3年にわたって、アマチュアチームの監督としてのキャリアを積むことになる。

「生まれて初めて名刺を作ったんや」

 先ほども述べた通り、選手としても監督としてもプロ野球で頂点を極めた野村にとって、専用球場を持たず、観客席も日よけもない市営グラウンドで顔面を砂まみれにしながら指導に没頭していたこの時期は、不遇の時代といわれてもおかしくはない。しかし、番記者として最初に強い印象を受けたのは、新たな挑戦を楽しむ姿だった。

 1年目のキャンプイン初日の情景は忘れられない。上下赤いユニフォームに初めて身を包み、スタジャンを着た野村は、集まったスポーツ各紙の担当記者があいさつをすると、ニヤリと笑った。

「生まれて初めて名刺を作ったんや。今まで持ったこともないし、必要もなかったけどな。名刺交換させてもらえるか」

 名刺には「シダックス株式会社硬式野球部GM兼監督」という肩書とともに、自宅の住所まで記されていた。古希も近くなっての「はじめての名刺交換」である。野球界で野村を知らない人はいない。それでもアマ球界という“郷”に入っては郷に従う柔軟な姿勢があった。

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