「なんだ、結局脱ぐのか……」猪木は戸惑う観客の前でタキシードを脱ぎ始めた アントニオ猪木の謎の行動に秘められた「闘魂のひと手間」とは
引退試合から24年目を迎えたアントニオ猪木(79)。難病を患いながらも回復を目指してリハビリ生活を送る姿をTwitterで公開。昨年NHK・BSで放送された特別番組も大きな反響があったという。
この4月、プロレス&格闘技ライターの瑞佐富郎氏は、リング上でも病床にあっても「不屈の闘魂」を見せ続けるカリスマの根源を探った『アントニオ猪木―闘魂60余年の軌跡―』(新潮新書)を刊行。紙数の関係で同書に収録しきれなかったエピソードとともに、瑞氏がその魅力をつづる。
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1995年5月3日、アントニオ猪木・北尾光司vs長州力・天龍源一郎のタッグマッチ(福岡ドーム)でのこと。長州組に続いて猪木組が入場、まず北尾が現れた。ところが、なぜか猪木は出て来ない。戸惑う北尾が入場ゲートに戻ろうとする。そこに、遅れて猪木が現れた。場内が騒然とする。なんと、猪木はタキシード姿だったのだ。
大歓声の中、猪木はそのままリングイン、マイクをとった。
「平壌で、プロレス史上最高の19万人の前でガウンを脱いでまいりました。今日はガウンがありません!」
この4日前、猪木は北朝鮮の平壌で、文字通りの大観衆を前に試合をした。
「この下は、シューズとタイツをはいております!!」
リング下に降りた猪木はいそいそとタキシードを脱ぎ始めた。シュールな光景だった。だが、そうも言っていられない。集まった5万2千人(主催者発表)の観衆が、その日一番と言ってもいい大歓声を上げていたのだ。
「なんだ、結局脱ぐのか」「だったら最初からタイツとシューズ姿で来ればいいじゃないか」、そう言いたくなる人もいるだろう。
だが、猪木はそれをしない。タキシード姿を見てお客さんは、「ひょっとして、試合をしないのか?」と思ってしまう。その不安を鮮やかに覆してみせたのだ。
自己演出、自作自演と言っていいかもしれない。しかし、それをきっかけに観客の視線が猪木の一挙手一投足に吸い寄せられたのは事実だ。長州、天龍、元横綱の北尾を向こうに回して、あの猪木が「次は何をするんだろう?」――。
それこそが、「闘魂のひと手間」なのだった。
今回、執筆するにあたりこうしてエピソードの数々を改めて振り返ると、その根底にあるものに気付かされた。
それは、ご本人の言葉を借りれば、「常に周囲を、アッと言わせたい」という情動だ。難病と闘う姿の先にあるのも、我々の常識を覆すものであってほしい。そう強く思う。