戦後、五輪を奪われた水泳「古橋廣之進」 ジャップと呼ばれた天才が世界を認めさせた道筋(小林信也)
ジャップのプール
さらに日本中を沸かせたのは、翌49年の全米選手権だった。ついに国際舞台への復帰が許され、古橋ら日本選手はロサンゼルスに渡った。敗戦国ニッポンの選手はホテル滞在が許されず、日系人の家に寄宿するなど厳しい待遇ではあった。現地のアメリカ人も冷淡で、あからさまにジャップと呼び、さげすんだ眼差しを向けてきた。古橋の自伝『熱き水しぶきに』にこうある。
〈私と橋爪君のレコードは、当然アメリカにも伝わっていたのだが、ロサンゼルスのプールサイドには、私たちの実績をそのまま認めようという雰囲気は、ほとんどなかった。(中略)
「ジャップのプールは、アメリカより短いんじゃないか」
「彼らの使っている時計は針の回りが遅いのだ」〉
古橋らはむしろ内なる闘志を募らせた。何しろ古橋は戦争が始まってから丸5年、水泳から遠ざかっていた。そして国際舞台への復帰までさらに4年も待たされたのだ。
大会が開幕すると、古橋、橋爪をはじめ日本選手は圧倒的な速さを見せた。1500メートルでは、予選で橋爪が古橋の未公認記録を更新した。次いで古橋がまたそれを16秒以上短縮する18分19秒0を記録した。すると地元新聞の論調が変わった。ジャップがジャパニーズになり、古橋には“フジヤマのトビウオ”という尊称が付けられた。大会前の侮蔑的な論調を謝罪する記事を見て、古橋はこう驚いたと自伝につづっている。
〈アメリカ人の持つフランクでフェアな一面に接して、私たちもまた彼らに対する認識を、大いに改めたのだった〉
互いの敬意と共感をとりもったのはスポーツだった。戦争による憎悪や誤解さえも一瞬にして溶かしてしまう力がスポーツにはある。そのことをいま改めて世界に発信する使命が、日本にはあるはずだ。
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