戦後、五輪を奪われた水泳「古橋廣之進」 ジャップと呼ばれた天才が世界を認めさせた道筋(小林信也)

  • ブックマーク

致命的な損傷

 世界で戦えない、世界一の実力を天下に示せない悔しさを日本は歯ぎしりして耐えるしかなかった。

「相手がその気なら」と、田畑会長らが考えたのは、ロンドン五輪の水泳決勝と同じ日に神宮プールで日本選手権を開催する案だった。

 大会のプログラムには、「日本水泳界の真価を世界に示そう」と、田畑会長は次のような一文を寄せた。

〈選手諸君は、日本を代表し、ロンドン・オリンピックに出場する意気込みで、大いにがんばってほしい。(中略)もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば、(中略)ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権大会の優勝者であるということになる〉

 この悲しくも激烈な田畑の思いに、古橋は強く触発された。何としても、世界を上回ってやる……。

 1500メートルレースは、日本大学後輩の橋爪四郎とのデッドヒートになった。世界の強豪はいなくても、橋爪の存在は追い風だった。最後のターンでは橋爪がリード。終盤の10メートルで古橋が逆転する激しいレース。ふたりは、世界記録を20秒以上も更新した。古橋の18分37秒0はロンドンの金メダリストを遥かに上回っていた。最終日の400メートルでも4分33秒4の世界記録を樹立。古橋は日本のプールで「ワールド・チャンピオン」になった。

 こうした活躍を見れば、古橋は頑強な肉体と才能に恵まれた“水の申し子”と思われるだろう。だが彼には痛烈なコンプレックスがあった。現役生活を終えるまでほとんど口外せず、隠し続けていた事実。それはまだ14歳の頃、勤労動員の際に不注意から負ったケガだった。回転する歯車に左手中指を巻き込まれ、アッと思う間に第一関節から先を失った。水泳選手にとっては致命的な損傷。古橋は激しい痛みと共に、絶望の底に突き落とされた。

(もう速くは泳げない)

 しかし、戦争を越えて泳ぐ自由を得た時、そんな諦めや言い訳は消えていた。

次ページ:ジャップのプール

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。