戦禍とアレルギーを乗り越えたジョコビッチ ワクチン接種を強制するテニス界の排他性(小林信也)

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 ノバク・ジョコビッチ(セルビア)がテニスを始めたのは4歳の夏。普通ならテニスに触れる機会などないはずの環境で、ジョコビッチは運命に導かれた。

 両親は、セルビアの避暑地コパオニクで夏の間、ピザパーラーを経営していた。冬はスキーで賑わう街に、政府がテニス・アカデミーを設置した。店の向かいにコートができると、幼いジョコビッチはフェンスにへばりついてテニスを眺めた。ある日、コーチが声をかけてくれた。元女子プロテニス選手でアカデミー講師のエレナ・ゲンチッチだった。彼女に誘われ、コートでボールを打ち始めた数日後、ゲンチッチはジョコビッチを「ゴールデン・チャイルド」と呼ぶようになり、両親に告げた。

「この子は今まで私が見た中でもモニカ・セレシュ以来の才能ですよ」

 ジョコビッチはテニスに夢中になった。友だちと遊ぶより、テニス・コートで何百本もフォアハンドやバックハンドを打ち、サービスを繰り返す日々が楽しくてたまらなかった。

 彼の著書『ジョコビッチの生まれ変わる食事』には、こう書かれている。

〈ほとんどの人は、人生で何をしたいのかを6歳で決めることはないだろう。でも、私は決めていた。13年前、セルビアの山岳地帯にあるコパオニクという街で両親がやっていたピザ屋の小さなリビングルームで、私はピート・サンプラスがウィンブルドンで優勝する姿を見て、心に誓ったのだ。「いつの日か、あそこで優勝するのはボクなんだ」と。〉

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