ウクライナ「避難」と「支援」の奔流が交錯する欧州2000キロルポ(下)

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ワルシャワへ逃れてきた母子たち

 ドイツ・ベルリンから夜行バスに乗った私は翌朝、ポーランドの首都ワルシャワの西バスターミナルに到着した。

 バスを降りるとピリッとした寒気で眠気が冷めた。気温はマイナス1度。この古びたターミナルに来るのは約3カ月ぶりだったが、その光景は一変していた。

 乗降場には避難民を乗せてきたウクライナナンバーのバスが並び、子連れの女性の姿が目立つ。空き地には、食事をふるまう大型テントが建っていた。その脇に並ぶ仮設トイレに入ると、清掃が間に合わないのか、直視できないほど汚れていた。

 午前6時過ぎだったのだが、バスターミナルの建物の中は、荷物を抱えた母子でごった返していた。青と黄色のウクライナカラーの張り紙やウクライナ語の立て看板があちこちにあり、難民向け相談所や両替所には行列ができている。ベンチに空きはほとんどなく、階段にしゃがみ込む人や床の上で毛布にくるまって寝入っている人もいた。

 床に置いたスーツケースとリュック、ボストンバッグ、レジ袋などの手荷物十数個を囲むように立ち話をしていたグループは、1時間前に着いたばかりだった。5歳から12歳の子ども4人とその母親ら女性6人の計10人で、ロシア軍に包囲されて激しい攻撃にさらされている北東部スムイからバスと列車を乗り継いできた。

 街を出たのは2日前。民間人の避難ルートを確保するための「人道回廊」が開かれた最後の日だった。コールセンターで管理職をしていた母親(34)は「手で持って来られたのはこれで全部です。たいして持てないものですね」と力なく話した。

「避難した人たちのほとんどが子どもを連れていました。爆撃で目覚める日々で、私たちも子どもたちの命が心配でした。親として何としても守るつもりですが、子どもに目をつぶらせることはできないので、私たちと一緒に怯えています」

 ウクライナ政府は侵攻当日に出した総動員令で18~60歳の男性の出国を禁じており、彼女たちの夫や兄弟は街に残った。高齢の両親も家を離れたがらなかった。こうした事情から、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると隣国に逃れた人の9割を女性と子どもが占めている。

 彼女たちを乗せたバス約130台はゆっくりした速度で人道回廊を通ってスムイを脱出し、途中で列車に乗り換えた。キエフを通っているとき、空爆の音が響いた。

「もちろん不安でしたが、ウクライナを脱出する方法はこれしかなかったので、気を強く持つしかありませんでした。覚悟はできています。強くならなきゃ。ウクライナは、大丈夫です」

 彼女は別れ際、握りこぶしをつくりながらこう言った。この先は当面、ポーランド国内の知人のところに身を寄せるという。

バスターミナルとショッピングモールの距離

 私はウクライナ国境に向かうレンタカーを借りるため、バスターミナル近くにある大型ショッピングモールに入った。

 吹き抜けのホールには噴水があり、ZARAなどの人気アパレルショップや家電量販店が軒を連ねている。平日の昼過ぎで客はまばらなものの、買い物袋を提げて小さな子どもの手を引く母親の姿が目に入った。

 私ははっとした。

 侵攻が起きていなければ、先ほどの母子たちもいまごろ、故郷のショッピングモールで買い物袋を手に散策していたかもしれない。それが今、親や夫を故郷に残し、持てる限りの荷物を手に空爆をかいくぐって逃れた隣国のバスターミナルで、立ち尽くしている。

 奪い去られた日常と、強いられた現実。

 歩いて15分のところにあるモールとバスターミナルの間には、別世界と言っていいほど圧倒的な距離があった。

軍の輸送車両は撮影禁止

 オランダで支援物資を積んだ5台のトラック隊は、ポーランドのウクライナ国境近くの町ラディムノを目指していた。ワルシャワからは約400キロ。トラックの到着時刻まであと4時間、私は高速道路をひたすら南へ急いだ。

 だが、ポーランド軍の輸送車両17台の車列を追い抜いたとき、私がカメラを取り出したのに気づかれていた。10分ほど走ると、輸送車から通報を受けたと思われる覆面パトカーが待ち構えていて、路肩に停車させられた。

「撮影禁止だ。画像は消してもらう。どこかに送信していないだろうな」

 2人組の私服警官に身分証の真偽やバックパックの中身を細かく確認される羽目になった。

 ポーランドが国境を接するウクライナ西部はこれまで比較的平穏だったが、この前日の3月13日に国境から約20キロの軍事訓練施設「国際平和維持安全保障センター」が空爆を受けるなど、戦火が広がりつつあった。ポーランド経由の物資補給を嫌ったロシア軍の警告ともみられており、ポーランド当局が情報管理に神経をとがらせている気配が感じられた。

 結局、ラディムノへの到着は30分も遅れてしまったが、幸いトラック隊の到着もずれ込んでいて、私が町に入ってすぐに見覚えのある青い車体に出くわした。そのまま後について輸送先の倉庫に入った。

ラディムノで荷下ろしされた支援物資

 運転手たちは待っていたラディムノ市の関係者と手分けして、フォークリフトも使いながら手際よく荷物を降ろしていく。約1400キロを走り切った運転手のレオンは、「みんな食料を待っていてくれて、最高の気分だ」と疲れも見せずに話した。

 ウクライナから避難してきた人たちはまず、コルチョバとプシェミシルの2カ所にある大規模な支援センターを訪れて避難民登録し、列車やバスの手配を受けてポーランド各地、あるいはその先のドイツなどに向かっていく。1日数万人が越境し、ラディムノにも1日に1000~2000人が立ち寄っている。

 今回の支援物資は避難者に配ったり、友好関係にあるウクライナ側の自治体に提供したりする予定という。

 支援を手掛けるラディムノ市開発協会会長ルカス・ポドラク(39)は、荷下ろしされていく支援物資に「すごい量だな」と目を見張りつつ、「でもウクライナには必要だ。これでどんな支援もできるようになる」とうなずいた。

 取材が終わって宿の手配を始めたものの、国境周辺の安価な宿は軒並み満室で、来たばかりの道を1時間も戻る羽目になった。

コルチョバの支援センターで出会った母子

 翌日、国境から6キロほどの場所にあるコルチョバの支援センターを訪ねた。

 まずそのスケールに圧倒された。幅約120メートル、奥行き約200メートルの巨大な展示場を転用したもので、面積は東京ドームの半分ほどもある。

 天井は高く、内部は間仕切りでいくつもの大部屋に仕切られており、避難してきた人たちがパイプベッドで横になったり、子どもたちが走り回ったりしている。犬や猫を連れている人も少なくない。

 収容人数にはだいぶ余裕があるように見えたが、数日前は満員状態だったという。ボランティアのトーマス・デューダ(38)は「大波が来るときもあれば、今日のように空になるときもある。人の動きはとても流動的です」と話す。ほとんどの人たちは一泊するだけで列車やバスで次の目的地に向かっていく。

 建物の外には支援団体の屋台が並び、肉を焼いた香ばしい煙が上がっていた。息子と一緒に食事を取りに来た母親に声をかけると、片言の英語で言葉を懸命に探しながら答えてくれた。

 ナタリア・コズロバ(45)が役場で働いていた東部ルガンスク州ルビージュネは侵攻以来、激しい戦闘に巻き込まれた。親ロ派が一方的に独立を宣言した「ルガンスク人民共和国」に近く、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が停戦合意の条件として、「共和国」側の領土と認めるようウクライナ政府に要求している場所だ。

「連日空爆を受けて、水も電気も暖房も8日間も途絶えていました。とても寒くて、食べ物もなくて、ひどい状況です。飲み水もないので、雪を溶かして飲んでいました」

 そんな状況から長女(18)と長男(11)を連れて脱出し、これからポーランドで働いている夫と再会する予定だ。だが、自宅にはまだ両親がとどまっているという。

「父は両目が見えないので、母が付き添っています」

 国外に避難する大波が続く一方、ウクライナ側に戻る人たちの姿もあった。

 ウクライナとの国際列車が発着するプシェミシルの駅では、逃れてきた子連れの母親らが歩く通路の反対側に、ウクライナ行きの発車を待つ数十人の列ができていた。

 アレキサンダーと名乗った建設業の男性(44)は、キエフの自宅に戻るつもりだ。ベルギーに出張した翌朝から侵攻が始まって、帰れなくなっていた。

「すべてのウクライナの男には戦う義務がある。兄弟姉妹を助けなくてはいけない。戦争が終わった後には再建が必要だ。ここに居続けるわけにはいかない」

チェルニヒウから逃れてきリリア

 プシェミシル駅から東に約13キロ進むと、ウクライナとの国境メディカに着く。

 ウクライナ側から歩いて国境を越えてくる人が多く、ポーランド側の出口には水や食料、果物にSIMカードまで、あらゆる支援物資をそろえたテントが20以上も並んでいる。つらい旅路を強いられてきた子どもたちを和ませようと、怪獣の着ぐるみが出迎えたり、シャボン玉が飛んでいたりと、ちょっとした縁日のような華やぎもある。

 だが、国境を越えてくる人たちの表情は一様に硬い。

 ゲートを出てすぐのテーブルでスープを飲んでいた女性に声をかけた。10歳と8歳の息子2人を連れて北部チェルニヒウから逃れてきたウェブ制作者リリア・プロトコ(34)は、時折宙を見つめて英単語を探しながらも、しっかりと私の目を見て答えた。

「恐ろしい戦争から子どもたちをどこか安全な場所に連れていくために、故郷を離れざるを得ませんでした。道中も爆撃を受け、銃を手にした人たちもいて、もうだめかと思いました」

 この先どうするのか尋ねると、リリアは「わかりません」と即座に首を振った。「計画はありません。でも希望は持っています」

 夫は国を守るために、そして両親は暮らしを守るために故郷に残った。眉間にしわを寄せながらそう言うと、リリアは唇をかんだ。

 私はどんな声を掛けたらいいのかわからなかった。「旅のご無事を(have a safe trip)」という決まり文句を小声で言ったものの、すぐ後悔した。行き先すら決まっていないというのに、どんな旅をしろと言うのか。言葉の薄っぺらさを悔やみながら、彼女たちがバスに乗り込む姿を遠くから見送った。

リリアとの奇遇の再会

 この日もホテルの空室が見つからず、車で1時間離れた宿に泊まった私は翌日昼、やっと見つけたプシェミシル駅近くの宿に早めにチェックインしようと訪れた。

 国境に近い交通の要衝プシェミシルには侵攻開始以来、東から逃れてきた難民と西から駆け付けた支援者が殺到して、宿泊先不足が続いてきた。私がネットで見つけたのは、急遽一般に開放された大学の学生寮だった。改装工事中で騒音と埃だらけの上、応対するスタッフも全く足りていない。私は1時間近くロビーで放置され、イライラしながらスマホをいじっていた。

 ふいに聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。

「昨日の記者さんですよね」

 振り返ると、リリアだった。リリアは「何かの運命ですね」と言うと、憔悴しきった昨夜の姿からは想像もできなかった笑顔を見せた。2人の子どもと友人、その母も一緒だった。

 彼女たちはメディカから乗ったバスでプシェミシルの支援センターに行ったものの、満員で寝る場所がないと断られてしまい、ネットでこの宿を見つけたのだという。お互いに偶然が重なった再会だった。

 埃だらけとはいえ、空爆の心配がない安全な環境で一晩を過ごしたからか、彼女の表情には生気が戻っていた。私と再会した奇遇も、ちょっとは心を和ませる効果があったのかもしれない。

 昨夜の支援センターでは、宿泊は断られたものの、ポーランド西部に当面の落ち着き先を手配してもらえたという。手配した列車の出発時刻が近づいていたので、私は彼女たちを車でプシェミシル駅まで乗せていくことにした。

「住むところが見つかって、子どもたちも学校に通えそうです。いずれ私も仕事を見つけて、新しい生活を始めたい。そして戦争が終われば、家に帰りたい」

 だが、故郷のことになると、か細い声に戻った。

「昨日も悲しいニュースがありました。パンを買う列に並んでいた10人が攻撃で亡くなったんです。誰なのかは分かりませんが、私が住んでいた地域なので友人やご近所の人かもしれません。助けることもできないのに知るのはとてもつらいです」

 駅前は駐車禁止だが、警官に「難民を送りに来た」と言うと、「1分だけなら」と目を瞑ってくれた。急いでトランクから彼女たちの荷物を降ろした。別れ際、今度は迷わず「お気をつけて」と伝えた。リリアは軽く頷くと、子どもたちの手を引きながら、避難先での新生活に続く駅の入り口へ向かって行った。

村山祐介
ジャーナリスト。1971年、東京都生まれ。立教大学法学部卒。1995年、三菱商事株式会社入社。2001年、朝日新聞社入社。2009年からワシントン特派員として米政権の外交・安全保障、2012年からドバイ支局長として中東情勢を取材し、国内では経済産業省や外務省、首相官邸など政権取材を主に担当した。GLOBE編集部員、東京本社経済部次長(国際経済担当デスク)などを経て2020年3月に退社。米国に向かう移民を描いた著書『エクソダス―アメリカ国境の狂気と祈り―』(新潮社)で2021年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。2019年度のボーン・上田記念国際記者賞、2018年の第34回ATP賞テレビグランプリのドキュメンタリー部門奨励賞も受賞した。

Foresight 2022年3月31日掲載

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