「硫黄島の戦い」終結から77年 米軍従軍カメラマンが撮影した「日本兵」を探すオランダ人女性
写真に記録されていた「米兵からタバコをもらう日本兵」
――お祖父さんが撮影された写真には、タバコを吸う日本兵が米兵と仲良くしている意外な様子が見て取れます。
私は、被写体の“ボディーランゲージ”を注意深く研究しました。ご指摘の写真(画像1)は、数週間の激戦を経験した敵同士が、突然降伏して出会うという驚くべき瞬間のものです。国立公文書館に収められた祖父の写真(画像2)の中には、洞窟から出てくる2人の日本兵の姿もあります。アメリカ軍は日系二世の通訳を使い、日本人を降伏させようとチラシを投げました。何人かは降伏しましたが、約2万1000人の兵士のうち捕虜になったのはわずか216人でした。降伏し洞窟から出てきた日本兵の目には、死を予感させる恐怖が浮かんでいます。しかし、別の写真(画像3)には、包帯を巻いた日本兵が米兵からタバコを受け取り、別の米兵が彼らの話をメモしている様子が分かります。死への恐怖が少しは取り除かれていたに違いありません。他の米兵は距離を保ち、日本人をじっと見ています。
アメリカ人は日本人を「猿」と見なし、日本人はアメリカ人を「悪魔」と見なすように言われたのです。武器を持たずに初めて顔を合わせた時の彼らの不信感を想像できますか? おそらくこの兵士たちは、敵を間近に見たことすらなかったのではないでしょうか。両者の“ボディーランゲージ”からは、お互いへの強い不信を感じさせつつ、敵はあくまで人間であることを認識していることが分かります。写真がこの瞬間を切り取った魔法なのです。
日本人捕虜の身振り手振りや表情からは、恥ずかしさと生きていることへの安堵感が入り混じった感情が読み取れます。「これからどうしたらいいんだろう? 降伏しておいて、どうして帰ってこられるのか」といったような。私たちは、この男性らの勇気、降伏前に自害せよというプロパガンダといかに戦ったかを見なければなりません。この状況では生き続けることが勇気なのです。彼らは自分たちの物語を語るためのヒントを私たちに提供してくれているのです。私は彼らにこう尋ねたいと思います。「その場にいて、敵に出会うとはどういうことだったのか――」。だから、私は硫黄島帰還兵の生存者や硫黄島で捕虜になった男たちの物語を知りたいと思い、(この記事を読んだ読者に)見つける手助けをしてほしいのです。
私は5年以上前から、一人でも多くの硫黄島帰還兵を取材したいと思い探しています。祖父の写真に写っている捕虜は誰なのか、ご家族の方でも話を聞きたいと思っています。たとえ写真に写っていなくても、硫黄島帰還兵の方を取材したいと思っています。ご存命の方も高齢でしょうから、まもなく「硫黄島の戦い」を語るにはフィクションしか残らなくなるでしょう。アメリカ側だけでなく、日本側からの物語を再構築し、全体像を知りたいと思っているのです。
――すでに取材された方はいるのですか。
1年前に、硫黄島で戦死した日本兵のお孫さんに接触しました。遺骨は、他の多くの日本兵と同じように、今も島に残っています。その遺骨を発掘し、持ち帰るための代表団への参加を申し込んだのですが、コロナ・パンデミックのために全てキャンセルになってしまいました。また同じ時期には、帰還兵の西進次郎さんにZoomでインタビューできたのは、非常に光栄なことでした。西さんはとても賢明な方で、寛容の精神、勇気、優しさに感動しました。
――これからの自分の使命は何だと思いますか?
展示会、本の出版、オンラインのウェブ・ドキュメンタリーなど、さまざまな形で記録をまとめ、このユニークな写真資料と収集した元軍人が話す音声を組み合わせる――。これが私の仕事です。
現在暮らすオランダでは、素晴らしい制作会社の協力を得て、オランダの公共ラジオ向けに2本立てのラジオ・ドキュメンタリーを制作することができました。私が米国メリーランド州にある国立公文書記録管理局に赴き、祖父の他の写真がアーカイブにあるのか、それと比較してどうなのかを見に行くという内容です。また、米国の硫黄島帰還兵の同窓会にも参加し、戦時中の話を聞くことができましたし、祖父の写真記録に対するコメントもいただきました。5名の米軍帰還兵のポートレート写真も撮らせていただきました。昨年は展覧会もオランダで開催されました。
私のプロジェクトはまだまだ続きます。
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