「硫黄島の戦い」終結から77年 米軍従軍カメラマンが撮影した「日本兵」を探すオランダ人女性
写真が語る“現実の核心”
――お祖父さんの遺産の存在を知ったのはいつのことなのでしょうか。
2012年に私の長男が生まれた後のことです。母が私に大きなコダック製のボックスカメラの入った箱を渡してきました。蓋をあけると、祖父のブルース・エルクス(Bruce Elkus)が軍の訓練に参加している間に祖母と交わした100通近い“ラブレター”、そして祖父が軍の公式写真家として記録した1000枚近い写真、それと軍の機密文書が収められていました。写真は「硫黄島の戦い」を含めた第二次世界大戦と、戦後の日本を写したものでした。母は私に「それで何ができるか考えてみてね」と言うんです。まるで大きな石を渡されたような気持ちでした。重い遺産が箱の中に入っていたのです。
――それまでお祖父さんが戦争について語ってくれたことは?
悲しいことですが、2001年に亡くなった祖父が戦争体験について話してくれたことは一度もありませんでした。母によると、祖父は戦争に駆り出される以前は、人生の目的を見出せないでいたそうです。そんな祖父を戦争が変えたのです。祖父は常に日本文化に深い敬意を抱いていました。また、占領中に真珠養殖の「ケンジ・オクナ」という友人を得ました。彼は何年にもわたってニューヨークを頻繁に訪れ、「ケイコ」という娘がいたそうです。
祖母に宛てた手紙を読み進めて行くと、彼が軍の大義に強い共感を抱いていたことが分かりました。祖父の語られざる生き様を知りたくて、遺産について少しずつ調べ始めたのです。
はじめは自分が何を見ているのか全く分かりませんでした。白黒の画像は、まるで別世界のものであるかのような印象を与えます。戦争、死体、切断、宗教儀式などの被写体や風景が何を意味するのか……理解に至るまでの過程は長かったです。祖父の写真を読み解くうちに、「私が抱いていた戦争のイメージは編集されたものではないか?」と気がつきました。箱の中に入っていた写真は、戦争の“現実の核心”を語っていたのです。
――“現実の核心”とは、例えばどんなものでしょうか?
写真家のジョー・ローゼンタールが撮影した「硫黄島の星条旗」は硫黄島のイメージとして定着しています。1995年2月23日、日本軍が必死に守った硫黄島の摺鉢山(すりばちやま)の頂に、海兵隊が星条旗を立てた瞬間を撮影した写真です。私も「硫黄島」と聞くと、この写真を思い出していました。
しかし、それは戦争の現実を語ってはおらず、非常に洗練されたイメージなのです。現実の戦争は実に様々な顔と、白黒では決め付けられないグレーな側面を持っています。私の世代は歴史の教科書で「硫黄島の星条旗」の映像を学びますが、祖父の写真記録を辿れば、より真実味を帯びた戦争についての認識を得ることができるのです。残酷な苦しみだけではない兵士たちの日々の生活、そして米国人と日本人の間には沢山の交流もあったのです。祖父の写真を通して、戦争がどのように存在していたかを知ることができます。米国の海兵隊大学の歴史学者らも、祖父の歴史的記録がユニークで、これまで見たことのないような様々な史実を現していると評しています。
祖父は、硫黄島での戦闘の最後尾を担った陸軍第147歩兵連隊の通信部所属の写真家として従軍していました。海兵隊が去った後、硫黄島に掘られた広大な洞窟にはまだ多くの日本人が隠れており、島を手に入れるためには彼らの激しい抵抗を打ち負かす必要があったのです。また、戦いが集結した後に残った死体の処理も行いました。硫黄島が歴史上最も血生臭い戦場となったわけですが、死体を放置しておけば伝染病が蔓延することが分かっていたので、後始末は不可欠だったのです。祖父は戦いが始まった1945年2月から硫黄島を後にする6月までこれらの作業に従事しました。さらに、アメリカが日本を占領している間の記録も残しています。
写真からは、祖父が硫黄島でたくさんの墓を掘っていたこと、戦いが終わった後の兵士たちがビールで祝杯をあげていた場面に立ち会い、参加していたことをも分かりました。終戦から60年以上が経ち、写真という祖父の目を通して、彼が実際に見たり体験したりしたものを知ることになりました。
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