世界の長者番付で3位に…バブルの不動産王・小林茂の素顔 30代で「秀和レジデンス」を生んだ背景とは

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「お医者さんからお手伝いさんまで」

 小林とともに「秀和レジデンス」の企画、設計に携わっていた山崎洋さん(現・アーバンライフ株式会社代表取締役社長)は、当時をこう振り返る。

「渋谷に近い青山の700坪の一等地に、それまで誰も見たことがなかった欧風マンションを建てようということになったのです。キャッチコピーは『お医者さんからお手伝いさんまで』。つまり、マンションの1階には診療所があり、常時、専用のお手伝いさんがいるという触れ込みでした。発売と同時に申し込みが殺到して、その中には作家の永六輔さんをはじめ、日本を代表する政財界の人の名前がありました」

 小林37歳の頃だった。

 経営手腕に長けた小林だったが、実は最もこだわったのはマンションの設計。学生時代は建築学部に籍を置き、1級建築士の免許を有していた。当時、小林の部下として、その仕事ぶりを間近で見ていた伊藤彰さん(現・株式会社アソルティ代表取締役)はこう回想する。

「コバルトブルーの屋根瓦と白い壁という秀和スタイルは共通なのですが、中身の造 りは物件ごとにまったく違う。採算度外視で決して安易な規格売りはしませんでした」

 小林は「外観」にも徹底的にこだわった。本社の屋外にイタリアから取り寄せた色とりどりのタイルを雨ざらしにして、時間と共にどう色褪せ変化するか耐久性を研究した。今日でも色褪せない秀和レジデンスの様式美は、小林の執念の集大成だ。

「当時、会社には若い設計士が働いていましたが、小林の感性は群を抜いていました。アイデアがひらめくと彼らを集めて、まるで図面で遊ぶ子どものように目を輝かせなが ら議論を戦わせていましたね」(伊藤)

サラリーマンでも買えるマンション

 ところが“億ション”に代表される富裕層主体の「第1次マンションブーム」は、そう長くは続かなかった。そこで小林は、一転してマンションの大衆化を図る。どうすれば、サラリーマンでも買えるマンションを造れるのか──。そこで小林は日本初の「住宅ローン制度」の導入を目指した。1962(昭和37)年に整備された「区分所有法」という法律によって、「マンションの一室も資産として認められる」ことを小林は利用したのだ。小林は銀行と話し合いを重ね、サラリーマンが月賦でマンションを購入できる制度を確立した。

 そしてもうひとつ、小林が提唱した仕組みがある。それが「管理組合」の導入だった。小林は次のようなことを書き残している。「買った時は白亜の殿堂であっても、何年か経つと面影が失われてしまう。壁は剥がれ落ち、水漏れがし、無断駐車、放置自転車が散乱し、マンションのスラム化が進む。ヨーロッパの高層住宅が300年も使用に耐えるというのは、管理が行き届いているからだ。ヨーロッパほどはないとしても、すばらしいマンションを維持するには管理次第ということである」

 マンションを買うなら管理を買え──。小林が考えたキャッチコピーと仕組みは大当たりする。小林が生み出した「住宅ローン制度」と「管理組合方式」の浸透によって、東京都内を皮切りに、全国にマンションが建てられることになる。まさに小林は、日本のマンションシーンの礎を築いた人物なのだ。「マンションといえば秀和」と称賛された由縁がここにある。

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