元公安警察官は見た 吉田茂邸の“お手伝いさん”をスパイに仕立て上げた諜報機関の手口
吉田茂から信頼された
A、B、Cの3人の男性は、そこで初めて陸軍中野学校の諜報部員だと名乗り、彼女にこう言い出した。
「吉田さんは親英米派で戦争を早く止めたいと言っている。これはお国にとっても重要なことだから、本当にそういう気持ちがあるのか確かめたい。逐一、彼の言動を知りたい」
正子さんは、最初は断ったが、お国のため、陸軍省の命令と言われ、その場で引き受けたという。
勝丸氏が続ける。
「吉田邸には、近衛文麿元首相、岩淵辰雄貴族院議員、鳩山一郎元文部大臣など、権力者が良く来ていたが、その度に正子さんはBさんに報告を入れたそうです。吉田邸には、憲兵隊から送り込まれた書生や使用人もいたが、吉田に気づかれ、クビになっています。ところが彼女は信頼されていたようです。彼女は純朴な女性だったので、まさかスパイとは思わなかったのでしょうね」
正子さんは、近衛、鳩山、幣原喜重郎元外務大臣などの家へ手紙を持って使いに出されたという。
「その際も、公衆電話を使って陸軍に連絡。吉田の手紙は蠟で封印されていたものの、中野学校の開封の専門家がやってきて、手紙の内容を写し取っていました」
正子さんは、吉田が近衛宛ての戦争終結案を書いた手紙も陸軍に伝えた。
「1945年4月15日、吉田は『近衛上奏分』(近衛が昭和天皇に出した戦争終結の文)の作成に協力したことを理由に憲兵隊に逮捕されます。それを知った正子さんは申し訳ないという思いで夜も眠れなかったそうです。結婚することを理由に実家に帰っています」
それにしても、正子さんはよく最後まで中野学校のスパイだとバレなかったものだ。
「彼女は腹が据わっていたのでしょう。聡明な女性だったようです。スパイの素質があったかもしれません」
その後、彼女は結婚し、神奈川県秦野市で夫と息子、義妹と暮らしたという。
吉田茂は40日間拘束された後不起訴、釈放となった。戦時中に投獄されたことで、GHQから反軍部とみなされ、逆に信用されたという。
「陸軍中野学校の卒業生は2500人と言われています。彼らは決して中野学校卒とは絶対に言いませんが、公安部が研修する際は、講師になった人もいました」
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