元公安警察官は見た プーチンが東ドイツで「殺されたい奴は前へ出ろ!」と叫んだ日

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 日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を十数年歩き、数年前に退職。昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、ウクライナ侵攻を続けるプーチンロシア大統領の“苦い経験”について聞いた。

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 ロシアのウクライナ侵攻が続く中、ロシア軍はウクライナ南部の港湾都市、マリウポリにある劇場を空爆した。そこは民間人が避難しており、攻撃を避けるために劇場の両側の地面にはロシア語で「子ども」と書かれていた。それにもかかわらず、ロシア軍は攻撃、一説には1000人が死亡したという。紛れもないジェノサイド(集団殺害)である。

 アメリカのバイデン大統領は、卑劣な行為を指揮するプーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼んでいる。だが、世界各国からいくら非難されても、蛮行を止めようとしない。その背景には、KGB時代に味わった苦い経験があるという。

東ドイツに駐在

「プーチンは、日本で第二次世界大戦中に諜報活動を行ったソ連のゾルゲに憧れて1975年、KGB(ソビエト連邦国家保安委員会)に入っています」

 と語るのは、勝丸氏。かつて公安部外事課に所属していた同氏は、ロシアを担当していた。

「1985年からプーチンは東ドイツに駐在していました。彼はKGBで拳銃の射撃訓練を受けていましたが、東ドイツでは西側諸国の情報を収集していました。特に、東側諸国の民主化の動きには最大限の注意を払っていました」

 東ドイツでは、質素な生活を送っていたという。

「彼はウォッカやワインより、ビールが好きだったそうです。お気に入りは、『ラーデベルガー・ピルスナー』という地ビールでした。ドイツ語も上手く話せたそうです」

 第二次世界大戦後、敗戦国だったドイツはアメリカ、ソ連、イギリス、フランスの戦勝4カ国によって分割占領が行われ、1949年に東西に分裂した。ドイツ民主共和国(東ドイツ)はソ連から経済援助を受け東側陣営に属し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は西側陣営に属した。

 首都ベルリンも東ベルリンと西ベルリンに分断されたが、1961年まで東西の往来は自由だった。ところが、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、危機感を持った東ドイツは1961年8月、ベルリンの壁を築いて東西の自由通行は断絶された。

 以後、東ドイツの経済は悪化していくのに対し、西ドイツは経済成長を続けた。東ドイツから西ドイツへの亡命者は後を絶たなかった。

 1980年代後半になると、ハンガリーやポーランドなどの東欧諸国で改革の動きが見られ、1985年にソ連の書記長に就任したゴルバチョフが行った「ペレストロイカ(建て直し)」によって、東ドイツで自由化を求める声が高まっていった。

 1989年、鉄条網が張り巡らされていたハンガリーとオーストリアの国境が解放されると、東ドイツからハンガリー経由で西ドイツへ渡る人が増加。自由を求めるデモの参加者が膨らんでいったという。

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