戦後の共産主義者釈放、歓迎会の主催は朝鮮人団体だった 「赤旗」の再刊資金の出どころは
「赤旗」の再刊資金
こうして共産党第1世代たちは府中刑務所から出獄し、党の再建に向けて一歩を踏み出すことになる。だが、組織を再建するには資金と人材、そして拠点が必要だった。これらは誰が準備したのか。
全国協議会も、第4回党大会も現在の代々木の日本共産党本部において開催されたが、これは、日本人共産党員である岩田英一(前出)が終戦の半年前まで所有していた東京電気溶接学校の土地と建物を、1945年1月6日に党に寄贈したものである。
その岩田は、自身の貢献や朝鮮人共産党員の貢献が、日本共産党の党史をはじめ、日本共産党の幹部の回想などに全く記載されていないことについて不満を述べていた。
「当時『赤旗』の主筆は志賀です。志賀が何かの本に書いていたけれども、『赤旗』第2号と3号の製作費や用紙の購入費も保坂(浩明=金秉吉)が全額これを負担しています。けれども『日本共産党の60年』(1982年)など宮本体制のもとで編まれた党史は、私の件――党本部となった土地建物の寄贈や金銭の寄付を含めて一切これを紹介していない」(吉田・同前―岩田氏証言)
「赤旗」「前衛」などの中央機関紙誌の担当者は、戦後の物資が乏しく経営が厳しいなかで、資金の工面から始まり用紙の調達・印刷所の確保まで、朝鮮人党員の協力を得て、10月20日の「赤旗」再刊にこぎ着け、記念すべき党再建への一歩を踏み出す。これらを安定的に刊行することで組織の方針を党員に発信し、組織政党として再建への道を歩みはじめるのだ。
資金は朝鮮人共産主義者に依存
日本共産党史にはこうした話は出てこない。だが、そこから省かれているのはこれだけではない。
党の再建にとってもっとも重要なマンパワーと資金は、その多くを朝鮮人共産主義者に依存せざるをえなかった。
公安調査庁法務事務官の坪井豊吉は、法務研究報告書に、「再建日共が朝連の中で誕生」し、日本共産党がしばらく、新宿・角筈の朝鮮奨学会ビルの2階にある朝連事務所を活動の拠点として使っていたと記している。
「その後も日共再建の協議と運動は、この朝連事務所を中心として展開され、その間の経費(集会場費、自動車、文書、赤旗再刊)などは、すべて朝連から支出されていた。したがって日共は、朝連側を徹底的に利用していたようで、当時は徳田球一も常に朝鮮人党員の行動性を重視し、好意的な煽動的言動で接していたと伝えられている」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書 第46集 第3号)
また、朝連関係者の証言や史料にも同様の記述がみられる。
敗戦後、占領下の日本で、日本共産党の再建を支えた朝連が、いかに誕生し、その財源がどこから来たのか。
(敬称略)
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