戦後の共産主義者釈放、歓迎会の主催は朝鮮人団体だった 「赤旗」の再刊資金の出どころは
準備は朝鮮奨学会ビルで
どちらが正確なのだろうか。
当時の関係者の証言から総合的に判断すれば、やはり朝鮮側に軍配が上がるのではないだろうか。
岩田が準備会合を開催したとする日本人共産主義者の拠点に梨木作次郎弁護士の事務所があげられている。当の梨木は、
「政治犯の釈放に向けた取り組みが朝鮮人運動家のほうが私らより早かったことは確かです」(吉田健二「救援運動の再建と政治犯の釈放〈3・完〉――梨木作次郎氏に聞く」大原社会問題研究所)
と証言している。
また、毎日新聞社出身のジャーナリスト大森実は『戦後秘史4 赤旗とGHQ』(講談社)の中で、日本人共産党員・吉岡保の終戦後の回想を紹介している。
吉岡は、10月7日の新聞記事でマッカーサー司令部の政治犯釈放命令が発されたことを知り、記事に連絡先として紹介されていた麹町区富士見町の栗林敏夫弁護士宅を訪れた。さらに翌8日には淀橋警察署が入居している朝鮮奨学会のビルを訪問した。当時、その2階は金斗鎔たちが占拠し、「出獄歓迎準備会」の準備をしていたと語っている。
「吉岡が淀橋警察署の建物に近づくと、入口に『朝鮮人解放連盟』と大書した看板が目を引いた。二階にあがると、三十人ぐらいの朝鮮人同志がいた。指導者格は金斗鎔と朴恩哲で、二人が交替で議長役をやっていた。出獄歓迎準備会の実際の活動はこの二人がやった」
1945年10月10日に出獄した志賀義雄たちをGHQが尋問した際に作成した文書(1945年10月12日に作成した原資料の写し)を入手したところ、志賀の投獄前の住所は、在日本朝鮮人連盟準備会のある新宿・角筈の朝鮮奨学会ビルの住所であった。出獄時に志賀が拠り所にしていたのは、やはり金斗鎔たち在日本朝鮮人連盟であろう。
武装した朝鮮人連盟の人間が警護
ちなみに、志賀の出所後の住所は、徳田同様国分寺の「自立会」になっている。
戦時中、豊多摩刑務所に政治犯として収容されていた共産党幹部・寺尾五郎は、徳田たち府中組が出獄後、「国分寺町(東京都北多摩郡)の司法省の保護施設である『自立会』に居を定め、党の再建に着手した」と記しているのと符合する(「証言 日本の社会運動 『前衛』創刊のころ――寺尾五郎氏に聞く〈2・完〉」大原社会問題研究所)。
この「自立会」周辺は、武装した朝鮮人連盟の人間が警護していた。つまり「府中組」を朝鮮人が護衛していたのである。
一方で寺尾本人は、国会議事堂の貴族院内の食堂を経営していた国峰実の貴族院内の一室に転がりこみ、活動の拠点としていた。
寺尾の回想では、出所後、各地にバラバラになった共産党幹部の居場所を探し当て、相互に連絡を取ることは一苦労だったようである。
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