マスターズには無縁だった「杉原輝雄」 ぶっきらぼうな裏に「心配り」が見える素顔とは(小林信也)
猛練習の賜物
中学を卒業後すぐ関西の名門・茨木カンツリークラブに就職。キャディーをしながらゴルフを始めた杉原が活躍できたのは「猛練習の賜物だ」といわれている。中部銀次郎著『もっと深く、もっと楽しく。』の冒頭にも次のように書かれている。
〈まだ若き杉原輝雄プロがフェアウェイ・ウッドの練習をしている場面に遭遇したのである。彼は何十個というボールを打ち、その落下点にはキャディが立っていて、杉原プロのボールをほとんど動くこともなく、手を伸ばして拾っているのだった──が、わたしがショックを受けたのは、彼のショットの正確さではない。あれほど正確なショットを放つ人が、それでも飽くことなく練習を続けている、というそのことだった〉
しかし、私が会った56歳の杉原はすでに違った。
「ここ4、5年、腎のう胞患って、オフの練習をやってまへん。病気を理由にね」
杉原が猛練習を奪われた。オフには自宅近くの89段の石段を毎朝4時に起きて25往復するのが日課だった。それもできなくなった。その身体で90年にはツアー3勝。89年からは毎年シニアで優勝を飾っていた。
「まだ若い」
今年もマスターズが目前だ。私は杉原にマスターズへの思いも聞いている。
「マスターズってアメリカの?」、最初は興味なさそうにはぐらかし、やがて素っ気なく付け加えた。
「日本選手がどうなった時に確実に招待券が得られるのか、はっきりしたものがあったらもっと励みになる」
杉原は73年から2年連続で賞金ランク3位になった。が、招待状は届かなかった。75年に招かれたのは1位尾崎将司と4位青木だった。もっと不可解な事実がある。63年から日本選手は2人ずつ出場している。なのに、杉原が一、二を争っていた69年から3年間は出場者1人。招待状は河野高明にしか届かなかった。マスターズに縁のなかった杉原はその後も白星を重ね、海外1勝、シニア8勝を含む通算63勝を記録した。
私が取材に行った日本オープン最終日、優勝も狙える位置にいた前半、集中を欠いてボギーを叩いた。
「まだ若いなあ。歳は取っているけど、まだ若い。バンカーから寄らず入らずで嫌気がさしたいうか、糸が切れた。失敗に腹が立つのは進歩につながるからええんです。でも途中から手抜きして、自分の職業を捨てるようじゃ情けない。全然ダメですよ。まだ若い」
大会2日目、ホールアウトした杉原を待っていると、私を見るなり、駆け足で逃げた。嫌われたのか?
「オレの話なんかより、せっかく来たんだ。優勝争いのグループを見に行け!」
そういう意図だったらしい。どこまでもぶっきらぼうな、「心配りの人」だった。
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