マスターズには無縁だった「杉原輝雄」 ぶっきらぼうな裏に「心配り」が見える素顔とは(小林信也)

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 松山英樹が1月のソニー・オープンで優勝。「青木功以来のハワイ制覇」と報じられた。前身のハワイアン・オープンで青木が優勝した39年前その場にいた私は、ヤシのそよぐワイアラエ・カントリーの風景を思い浮かべた。記憶の中、緑のコースを歩いているのはひとりの日本人選手だった。

「せっかく来たのなら杉原を見てやってください」

 前日練習の取材中、私を見つけて言ったのは中継テレビ局のプロデューサーだった。視線の先に肩を揺すって歩く小さなベテラン選手の眼光鋭い姿があった。

 それが杉原輝雄だった。

 当時45歳。1962年に日本オープン初優勝。以後、76年を除き毎年1勝ずつ重ね通算20勝。162センチと小柄ながら、“叩き上げ”の杉原は青木や中島常幸らに負けず、82年も生涯最多の4勝をあげるなどトップ選手の一角を占める存在だった。

 その杉原に取材して、5回連載でルポを書く依頼を週刊読売から受けたのはちょうど10年後、杉原56歳の秋だった。ハワイで見た時、すでにベテランの印象の強かった杉原はあれから10年の間に、勝利数をさらに13も増やしていた。

 連載の冒頭、私は初めて杉原と電話で言葉を交わした時のことを書いている。

「インタビューの時間はどれくらい頂けそうでしょうか?」

「どれくらいて」

「できればゆっくりお話を」

「そんな、ゆっくりいうわけには行きませんやろ」

 不安を募らせ、御殿場のゴルフ場に向かった。VISA太平洋クラブマスターズの練習日。約束より10分早く、指定されたクラブハウスに行った。すると、杉原は外で立っていた。私はおずおずと声をかけた。

「約束よりちょっと早いのですが」

「全然早いことあらへん」

 怒ったように杉原が言った。中に入ると、話のできる空席はなかった。

「近くの練習場に行けば、場所があるやろ」

 ボソッと言って、杉原は歩き始めた。私は慌てて後を追った。停まっていた車の助手席に杉原が乗った。行先も告げないのに、車は練習場に着き、そこにふたりの席が用意されていた。

「さあ何でも聞いてください」、杉原が身を乗り出して、私の目を見た。私はまだ戸惑いの中にいた。ここまでずっと、私は杉原の冗談を真に受けていたのか。その日杉原はたっぷり2時間以上、取材に応じてくれた。

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