涙のUターン事件、野球部員に試験免除… 春の選抜を不祥事で出場辞退したのは過去12校もあった

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地域初の甲子園出場が一転…

 67年第39回大会の津山商(岡山)は、応援団員の暴行致傷事件に泣いた。津山市を含む岡山県の県北地域では春夏を通じて甲子園に出場した学校はなかった(春夏通算21度出場の関西、65年春の選抜優勝校の岡山東商など、県内の強豪校はいずれも県南に属していた)。そんな状況のなか、津山商は県北から甲子園を目指すべく、3年計画で地元の有力中学生に声をかけてまわり戦力強化を図った。この努力が実を結んだのが、66年秋。連日のように終電ギリギリまで猛練習を重ねたチームは秋の岡山県大会を制覇。続く秋季中国大会ではナインのほぼ全員が食中毒に見舞われながら、何とかベスト4入りを果たした。苦難の末、県北地域の高校として初めて手にした甲子園行きの切符のはずだった。だが、甲子園初出場という夢は直前で無残にも散ってしまったのである。

 代わって補欠校から繰り上げ出場したのは県南の強豪・倉敷工だった。春の無念を晴らすべく、夏に懸けた津山商。県大会を勝ち抜いたものの、続く2次予選の東中国大会1回戦(準決勝)で惜敗してしまう。結局、この年の津山商以降、県北地域のチームから春夏通じ甲子園出場校は出ていない。

 75年第47回大会の門司工(現・豊国学園=福岡)の出場辞退は、北海のケースよりも急だった。ことの発端は大会開幕4日前に福岡県北九州市内で勃発した住居侵入・暴行未遂事件。そして開会式前日、容疑者として逮捕されたのが同校の生徒2人だった。一報を聞いた選手たちは「出場は無理かなぁ」という話はしていたというが、その悪い予感が的中してしまう。翌日の早朝、同宿していた東山(京都)ナインが甲子園に向かった一方、門司工ナインのもとには校長がやって来た。「辞退をしないと夏の大会も出られなくなる。君たちはバスに乗って九州に帰りなさい」と説得されたのだった。

 このとき門司工の代替校として選出されたのが佐世保工(長崎)だった。門司工が出場予定だった3日目第2試合で前年秋の東海大会王者の静岡商と対戦。あまりに急な決定で準備不足の甲子園入りではあったが、強豪相手に8回まで4-5という接戦を演じ、最終的には4-7で敗退している。

 無念の出場辞退となった門司工だったが、幸い夏の大会出場は認められた。前年秋の九州大会王者だったこともあり、ナインたちには自信があったという。しかし、勝負を懸けた夏は県大会の準々決勝で敗退。伏兵の南筑相手に延長11回、0-1の惜敗だった。この夏、47イニング目での初失点が決勝点となる皮肉な展開で涙を飲んだのである。門司工はその前身を豊国中といい、大正時代に2度、夏の甲子園に出場した古豪であった。この年は豊国中時代以来、実に55年ぶりの甲子園出場で春の選抜は初出場。当然、市を挙げて盛り上がっていた。しかし、この絶好の機会を一般生徒の不祥事で逃し、以降も甲子園の大舞台には縁がない。

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