昭和の大横綱「大鵬」に流れるウクライナの血 父親はハリコフ市出身の「コサック騎兵」だった

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 昭和の大横綱、第48代横綱の大鵬幸喜(本名・納谷幸喜)には、ウクライナの血が流れていた。

 平成25(2013)年1月、72歳で鬼籍に入った大鵬。その父、ボリシコ・マリキャンは、現在、ロシアに侵攻されているウクライナ第2の都市、ハリコフ出身だということが明らかになっている。

 昭和35(1960)年の初場所で20歳の新入幕ながら11連勝と大活躍し、「大鵬」の名を一気に知らしめると、「白系ロシア人(支配する共産主義を“赤”として、当時でいう反体制派を意味する)との混血ではないか」などと、にわかにその出自についてマスコミが騒ぎ出す。師匠である二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花勝巳)が一笑に付して記者陣を巻き、その場を収めたものの、大鵬自身は己の出生について半信半疑でいながら、曖昧にしたままに時を経てゆく。

 なぜならば、大鵬の母である納谷キヨが、父親について一切口をつぐんでいたからだった。

 明治34(1901)年、北海道・小樽に近い神恵内(かもえない)という小さな街で銭湯を営む両親のもとに生まれた大鵬の母・キヨは、洋裁の教師を経て樺太(現サハリン)の港町・敷香(しすか)(現ポロナイスク)の洋服店に住み込みで働いていた。

 ある日、来店した2メートル近い長身のウクライナ人に見初められる。流暢な日本語を話し、6カ国語を操るほど語学に堪能な17歳年上の紳士――それが大鵬の父となるボリシコ・マリキャンだった。当時42歳、ロシア帝国時代から続く貴族の出身で、古来“最強の兵力”といわれた「コサック騎兵」のひとりでもあったという。

 革命や動乱を繰り返すロシアから、共産主義を嫌って樺太に亡命したボリシコは、大正15(1926)年にキヨと結婚し、敷香郊外で牧場を経営する。夫婦は身を粉にして働き、その規模はだんだんと大きくなり、いつしかボリシコは樺太で屈指の名士となっていった。

 この地で5人の子をもうけるが、大鵬の長兄と長姉は早逝。次兄、次姉、昭和15(1940)年生まれの幸喜――3人の子らは、その後の戦禍をも乗り切った。

 敷香で暮らす幼少時には、それぞれにロシア名の愛称があったという。大鵬の愛称は“ワーニャ”だった。しかし大鵬には、その名で呼ばれた記憶も、3歳まで暮らしたはずの父との思い出もまったくないままだった。

 昭和18(1943)年、第二次世界大戦終戦の2年前のこと。父は集団帰国命令に逆らえずに祖国に戻り、以来、妻子とは生き別れのままとなる。(ちなみにスパイ容疑を疑われての帰国命令との説も流布されたが、のちに容疑は晴れている)

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