イトマン事件、幕引きを図った「巽外夫」元住銀頭取 特攻隊として培われた胆力
巽vs.河村の暗闘
住銀の行内では幹部たちが「このままではヤミの勢力に喰われる」と、恐怖心をつのらせていた。イトマン常務の座に就いた伊藤の部屋には、山口組の金庫番である宅見組組長宅見勝(1936~1997)の秘書が、白昼堂々、出入りするようになっていたからだという。
「伊藤は宅見組の企業舎弟で、イトマンは宅見組に乗っ取られた」。真偽のほどは別として、関西財界では、こんなひそひそ話が交わされていた。
イトマン=住銀事件の底流に、重層化した低い音が、もう一つ響いていたことを報告したい。
それはイトマン社長の河村良彦と住銀頭取の巽外夫のバンカーとしての資質の違いに根差していた。
河村のイトマンでの社長在任期間が10年を超えた頃から、「(住銀は)毎年、(新しい)社長の派遣を河村に提案したが、ことごとく(河村に)拒否された。他の上場企業に天下った住銀の役員の中には、当初はイトマンに社長として送り込まれる予定の人もいた」(住銀の元役員)
最終的に「巽さんが河村潰しに出られたのは、磯田の暗黙の了解があったからだ」(別の住銀の元役員)
イトマン=住銀事件が火を噴く頃には、「磯田さんが電話しても河村さんは電話口にも出てこない」(住銀の幹部、イトマンの首脳)状態にまで、二人の関係は悪化していた。
磯田天皇の辞任会見
1990年9月16日付の日本経済新聞が「イトマン関連四社の不動産関連融資が一兆二〇〇〇億円に達している」と報じ、不動産融資の実態を詳しくリポートした。
これをきっかけに金融機関はイトマン向け融資に急ブレーキをかけた。イトマンに貸し込んでいた住銀は窮地に追い込まれた。
更に10月5日、山下彰則・元青葉台支店長が出資法違反容疑で逮捕された。住友銀行を「心のふるさと」と呼び、同行の融資で株式の仕手戦を繰り広げ、蛇の目ミシン工業に対する恐喝事件によって証券取引法違反で逮捕された仕手集団・光進の代表、小谷光浩に対する不正融資である。
これで磯田は辞任の決意を固める。だが、綺麗に辞めるつもりはなかったことが、後に明らかになる。
いずれにしても冒頭で紹介した、
《頭取として最も緊張した場面は、イトマン問題で磯田会長が日曜日に記者会見を開き辞任を表明した前日だったのではないか。夜、電話で磯田氏が辞任表明を巽氏に伝え、巽氏は「自分も辞める」と話したが、磯田氏に慰留された》
という場面が訪れたのだ。
翌7日、磯田は辞任会見に臨んだ。その様子を『【ドキュメント】イトマン・住銀事件』(日本経済新聞社)は次のように描写した。
《午前十一時、磯田、巽の両首脳は並んで記者会見場に現れた。長身の磯田会長はラグビーで鍛えたがっしりした胸をそらすように堂々と、対象的(原文ママ)に小柄な巽頭取はややうつ向きかげんにマイクの前に立った。これをみて「辞めるのは巽さんか?」と思った記者もいた。》
《「当行の元支店長による出資法違反事件の責任を取って会長を辞任する」──マイクを使っているとはいえ、ことさら大きな声が広い会場に響いた。》
《記者の質問に答えて頭取が「私も辞任を申し出たが」と話し出すと、会長がさえぎって「それはいかん。頭取も辞任を申し出たが、会長、頭取が一挙に辞めたのでは銀行の運営ができなくなる。頭取には留任するよう説得した」と言いきった。》
《イトマンの不動産関連の過大な債務問題との関連を問われても、磯田会長は「全く関係ない」と強調した。住友銀行のトップが誰だったのか、会長が身をもって示した記者会見だった。》
辞めない磯田天皇
会見まで開いておきながら、磯田は会長の座にとどまった。筆者は前掲の『住友銀行暗黒史』に次のように書いた。
《山下の逮捕を受けて辞任会見を開いた磯田は、表向きの理由として、青葉台支店の事件の責任を取ると述べた。だが、厳しさを増していたイトマン事件の批判をかわすために青葉台事件を利用したのだと、当時から指摘されていた。実際、新聞各紙に「磯田退任」の見出しが踊ったが、磯田自身は辞める気配を見せなかった。》
《青葉台支店の不正融資事件で責任を取るということであれば、頭取の巽外夫が、まず辞めなければならないはずだ。磯田はこの事件を持ち出すことで、自分に対する責任追及と批判を強めていた巽を牽制する狙いがあった。》
西川善文は前出の回顧録で、「(私が)磯田一郎にとどめを刺した」と書いた。
《磯田さんの個人的な問題のせいで住銀全体が危うくなることなど絶対に許せない、と思った。》
磯田は巽の後任に副頭取だった西貞三郎を充てようとした。だが、事態は膠着して進まない。
緊急部長会の招集
辞任を表明しながら人事権を握る会長に忖度する守旧派、「磯田会長に引導を」と動く玉井副頭取―西川善文常務ら改革派。巽は改革派に与しながらも宙ぶらりんの状態が続いた。
反磯田の急先鋒は、副頭取の玉井英二である。玉井は西川善文が入行当時からの師匠であり、西川を信頼して働かせてくれた人物でもあった。
玉井が西川の背中を押した。
《「磯田会長は何だ。こんなはっきりしない宙ぶらりんな状態では行内は収まらない。常務以上の役員はどうにもならん。だれも磯田さんのクビに鈴を付ける気になっていない。俺は磯田さんに睨まれているから俺がやったら大騒ぎになる。西川君が部長を全員集めなさい。君がやりなさい」》(『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』)
1990年10月13日土曜日。常務企画部長だった西川善文は緊急の本店部長会を招集した。西川が前面に出ると企みがばれる可能性があったので、企画部次長に電話をさせた。用件も何も言わずに、緊急部長会の招集を通知した。
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