イトマン事件、幕引きを図った「巽外夫」元住銀頭取 特攻隊として培われた胆力

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住銀の“裏カード”

 堀田の裏カードは副頭取の安藤太郎(1910~2010)だった。“東京探題”と呼ばれた安藤は、政界工作を一手に引き受けて、あまりにも力が強くなりすぎた。頭取の堀田をも脅かす存在になったため、1974年5月、住友不動産の社長に転出させられた。

 一方、磯田は裏カードを2枚持っていた。1枚が副頭取の西貞三郎(1927~2012)であり、もう1枚がイトマン社長の河村良彦である。二人ともノンキャリア組の出世頭だった。

 磯田と西の出会いは大阪・高麗橋支店だった。磯田は初の支店長で、西は同支店の行員だった。磯田が出世するのにつれて、西も出世の階段を昇っていった。

 もう1枚の裏カードである河村良彦は1941年、山口高等商業学校(現・山口高等学校)を卒業し住友銀行に入行した叩き上げである。その抜群の営業成績は後々まで語り草となったほどだ。猛烈な働きぶりが上司の磯田の目に止まり、名古屋栄町支店長、東京渋谷、銀座の両支店長、取締役人形町支店長を歴任する。銀座支店長の時に、銀座のバー、クラブなど水商売の顧客を増やした。

 1975年1月、副頭取の磯田に呼ばれ、船場の老舗問屋・伊藤萬(後のイトマン)の再建を命じられた。平取からワンランク上の常務の肩書きにしてもらった河村は、副社長としてイトマンに乗り込み、すぐに社長に就任した。

磯田天皇の焦り

「立て直しが終わったら住銀に戻す」という約束だったが、頭取になった磯田は、河村をイトマンに残した。外部の汚れ役をどうしても確保しておきたかったからだ。

 河村は磯田の“裏仕事”を請け負うことが多くなった。そのためイトマンについた仇名が「住銀のタン壷」。これがイトマン=住銀事件を引き起こす背景となった。

 イトマン=住銀事件の出発点は、住友銀行による平和相互銀行の合併にあったといえるだろう。合併によって住銀は、平和相銀が抱える不良債権を全て抱え込んでしまった。

 平和相銀が背負っていた不良債権は実に6000億円。このうち2000億円を合併前に償却し、1000億円は住銀が負担した。

 住銀は関東への本格進出という悲願を果たした。だが、代償は大きかった。4000億円を償却しなければならなくなったため、5年半にわたる収益トップの座を他行に譲り渡されなければならなかった。

 合併後初めての1987年3月期の決算で、住銀は経常収益で第4位、営業利益で第5位に転落してしまった。磯田一郎が焦った時期とされている。

 そこで、磯田は強権を発動する。同年8月21日、頭取を小松康(1921~1999)から巽外夫に交代させた。

返り討ちにあった頭取

 小松は平和相銀との合併には消極的で、合併を推し進めたのは磯田だった。住銀が収益トップの座から滑り落ちた元凶が平和相銀との合併だということは、周知の事実である。

 行内で磯田会長派と小松頭取派が激しく火花を散らした。

 小松頭取を中心とする勢力は、青木久夫副頭取と玉井英二専務。「小松会長、青木頭取」とする人事構想だったとされる。経営会議を前に、会長と頭取の両派が、それぞれ別のホテルに陣取って多数派工作に奔走した。

 磯田を棚上げする人事案は、磯田の懐刀(ふところがたな)と言われた専務の西貞三郎が察知するところとなり、小松は返り討ちにあった。磯田は平相の合併に反対した小松に収益悪化の責任をかぶせ、退任に追い込んだのである。

 小松解任劇でも磯田は2枚の裏カードを上手に使った。小松頭取派を壊滅させた西は、論功行賞で副頭取に昇格した。河村は小松の追い落としを狙った情報をマスコミに流す、磯田の裏広報に徹した。

 磯田、西、河村ラインのほうが、小松派より喧嘩は一枚も二枚も上手だった。

 小松を解任したことで、磯田は“住銀のドン”と呼ばれるようになり、絶対君主として君臨する。「向こう傷を問わない」という名文句に象徴される磯田神話がつくられるのは、実は、小松解任以降のことなのだ。

 住銀は収益トップの座の奪回を目指してひた走る。やがてバブル景気に突入していき、1989年3月期の決算で住銀は収益トップの座に返り咲いた。

退任を求められた巽

 1990年5月24日、日本経済新聞社がイトマンの不動産投資による借入金が増大しており、今後の課題であるとして「土地・債務圧縮急ぐ」という見出しのスクープ記事を掲載した。

 これがイトマンの経営危機を世間が知ることになる最初の報道である。

 磯田は「リークしたのは巽外夫頭取や玉井英二副頭取、松下正義専務らの仕業ではないか」と疑った。伊藤寿永光が宿泊していた帝国ホテルの部屋を、磯田が自ら訪ねた。

《「イトマンはマスコミ対策がなっとらん。君がマスコミ対策してくれんか。役員に就任してイトマン内部からいろいろ調べてほしいんや。僕自身もマスコミから追っかけられてかなわんし」》(森功『許永中 日本の闇を背負い続けた男』講談社+α文庫)

 住銀頭取の巽は伊藤のイトマン常務就任に猛反対した。これに激怒した磯田は、巽に退任を求めた。

 それでも、伊藤は6月28日、イトマンの常務になったのである。

 磯田は頭取の巽のクビを切ってでも、伊藤の不動産プロジェクトへの融資や許との絵画取引を続けようとしていたわけだ。住銀の首脳に発言は、この傍証になる。

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