イトマン事件、幕引きを図った「巽外夫」元住銀頭取 特攻隊として培われた胆力
「君まで辞めてどうする」
多くの住銀ウオッチャーが、イトマン事件の渦中に「巽が磯田に慰留された」と書いている。
磯田一郎(1913~1993)は、日本を代表する銀行家として権勢をほしいままにした。住友銀行頭取・会長、経団連副会長──。
「住友銀行中興の祖」、「住友銀行の天皇」と、彼の権力を評する言葉は枚挙に暇がない。おまけにラグビーの日本代表選手だった。
ワンマン頭取として住友に君臨した磯田が巽を慰留しなかったら、その後の住銀の歴史は、まったく別のものになっていた。
『【ドキュメント】イトマン・住銀事件』(日本経済新聞社)には、以下のような記述がある。
《東京・港区にある巽頭取の自宅マンションの電話が鳴った。磯田会長からだった。》
《「自分は会長を辞める。日曜日だが明日、記者会見をしよう」──。》
《この時のやり取りについては、その後も二人の首脳は当然のことながら語ろうとしない。しかし、複数の住友銀行から得た断片的な話から推測すると、次のようなものだったらしい。》
《巽頭取「イトマンの方のメドは付いたのですか」
磯田会長「ほぼ大丈夫だ。それは自分がやる」
巽頭取「それなら私も辞めましょう」
磯田会長「君は残れ。君まで辞めてどうする」》
巽と『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』を上梓した西川が死去したことにより、戦後最大の経済事件「イトマン事件」に深く関わった住友銀行頭取はいなくなった。
「イトマンは住銀のたん壺」
イトマン事件とは、バブル末期、大阪の中堅商社イトマンを通じて、絵画取引やゴルフ場開発などの名目で、巨額の融資が引き出された経済事件である。イトマンは利益拡大に走る住友銀行の手先として動いていた。
事件としては1991年、大阪地検特捜部が元住友銀行常務でイトマン社長だった河村良彦(1924~2910)と、住銀・イトマンからビッグマネーを吸い上げた実行犯と認定された伊藤寿永光(1945年生まれ)、許永中(75)らを逮捕、起訴した。
河村良彦は2005年に懲役7年、伊藤寿永光も同年に懲役10年、許永中には懲役7年6カ月と、各被告に実刑の有罪が確定して終結した。
筆者は事件が発覚する前、「文藝春秋」(1990年8月号)の名物コラム「丸の内コンフィデンシャル」に「イトマンは住銀のたん壺」と書いた。大手の媒体で「住銀のたん壺」という表現をしたのは初めてである。
住銀がメインとなってイトマン関連の案件に融資した金額は1兆2000億円。筆者は『住友銀行暗黒史』(さくら舎)の冒頭の部分で《1兆2000億円のうち、少なくとも6000億円前後が闇の勢力に吸い込まれた》とした。
住友銀行を崖っぷちまで追い込んだイトマン事件の渦中に頭取となった巽は、最前線で指揮を執り続けた。当時、事件を取材していた経済記者などが巽の評伝を書いている。
死亡を秘した遺族
ノンフィクション作家の児玉博も、「文春オンライン」(2021年2月19日付)に文章を寄せている(註3)。
《巽を暗澹たる思いにさせたのは、かつては、後にイトマン事件の主人公となる河村良彦らとともに「磯田(一郎。元住友銀行頭取)さんを頭取にするのが夢だ」とも語り、仰ぎ見ていた磯田の老醜だった。権力欲に塗れ、取り巻きの追従に溺れた哀れな姿だった。》
《巽はかつての同僚で、イトマン社長となっていた河村を呼び出し、同社に入社させていた不動産担当の伊藤寿永光を切ることを求める。ところが、河村はそれを拒否したばかりか、逆に伊藤を役員に昇格させてしまう。イトマン、住友銀行は釣瓶落としのように闇の勢力に飲み込まれようとしていた。》
《イトマン、住友銀行を食い物にする許や伊藤らにとって巽は排除すべき存在だった。それからだった。巽に尾行がついたのは。》
《巽とは東洋工業(マツダ)救済以来の付き合いのあった元新聞記者によれば、巽への許らの尾行は3カ月にも及んだという。許らは巽の弱点を探し出して黙らせるつもりだったのだろう。》
《「俺には女なんかいやしないのに」》
《巽は当時を振り返り、苦笑していたという。しかし、尾行されていた当時は、銀行の通用門から出てはタクシーに乗り、予め数キロ先に待たせていた公用車に乗り換えたりしていた。こんな日常を巽は愚痴をこぼすこと無く続けた。》
児玉は記事の中で、《今回、巽が亡くなったことを公にしないで欲しいと強く望んだのは家族だったという》と明かしている。
《三井住友銀行側が巽の実績などを踏まえて、マスコミ発表を一切しないことへの難色を示すと、最終的に折り合ったのが葬儀が終わってからの発表というものだった。》
《イトマン事件の呪縛は未だに人の心を縛り付けていた》と児玉は記した。
娘を溺愛した“天皇”
元住友銀行頭取の西川善文は前掲の『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』で、イトマン事件に言及している。住銀の最高首脳がイトマン=住銀事件について初めて公式に語った。
《今まで私も含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。私は磯田園子さんと直接話した機会はなかったのだが、磯田さんの溺愛ぶりを示す、こんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して二人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて、本当に苦労したようだ。》
《そういう磯田さんに、父親として娘の事業を後押ししたい気持ちがなかったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの河村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。》
“磯田天皇”の娘可愛さが全ての出発点だった――。西川善文はこう断じた。
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