イトマン事件、幕引きを図った「巽外夫」元住銀頭取 特攻隊として培われた胆力
元住友銀行(現・三井住友銀行)頭取・巽外夫(たつみ・そとお)が2021年1月31日に97歳で亡くなった。その「お別れ会」が同年5月27日、東京・帝国ホテルで開かれた。(以下、敬称略)(註1)
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【写真2枚】イトマン事件で闇勢力と対峙した、 巽外夫氏(1923~2021)と、西川善文氏(1938~2020)
大阪市北区のリーガロイヤルホテルにも献花台が設けられ、遺影に献花して故人を偲んだ。参列者は東京と大阪で1250人にのぼった。
巽の死に際して、三井住友銀行・会長の宮田孝一と頭取の高島誠が連名で「巨額の不良債権処理の断行など一連の改革を着実に実行し、その後の(当行の)飛躍に向けた道筋をつけた」とコメントした。
新聞各紙も訃報を伝えた。共同通信の井上勝則が執筆した追悼記事は、全国のブロック紙や地方紙に掲載された。
本稿では井上の記事を、四国新聞が5月31日の朝刊に掲載した「特集/追想 メモリアル=筋を通した覚悟のバンカー、元住友銀行(現三井住友銀行)頭取 巽外夫(たつみ・そとお)さん 1月31日 97歳で死去」から引用する。
井上は巽を《持ち前の胆力で筋を通したバンカーだった》と振り返った。巽にとっての大仕事は、《戦後最大の経済事件と言われたイトマン事件の幕引き》だったからだ。
井上の記事だけでなく他紙の追悼記事も、巽が特攻隊に配属されたことにより《胆力》が育まれたと指摘している。
“寡黙”だった巽
巽は1923年、福井県に生まれた。旧制の松江高等学校(現・島根大学)から京都大学の法学部へ進んだ。
京大に入学したのは第二次世界大戦中の1943年10月。同年2月にはスターリングラード攻防戦でソ連軍に包囲されていたドイツ軍が降伏し、ガダルカナル島からは日本軍が撤退した。
日本の敗色が濃厚になっていた時代に、巽は大学生となった。
同じようにイトマン事件の処理に奔走した西川善文(1938~2020)は、2011年、『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』(現在は講談社文庫)を上梓。自身の銀行員人生を明かして大きな反響を呼んだ。
“後輩”の西川とは対照的に、巽は自叙伝の類はもちろん、長文のインタビュー記事さえ残さなかった。ちなみに西川は1997年に、巽は1987年に、住友銀行の頭取に就任した。
マスコミには“寡黙”だった巽が、海軍時代を振り返った貴重な資料が残されている。
「練習中に何度か死にかけました」
京都大学広報委員会が発行する「京大広報」(2002年12月号)の取材に応じ、「〈寸言〉私の京大時代」とのタイトルでインタビュー記事が掲載された。
《徴兵猶予が停止されたため兵役につくことになり、私は長兄が任官していた海軍を志望し、12月10日には舞鶴海兵団へと配属となりました。その後、視力の良かった私は航空隊任務となり、19年1月(編集部註:昭和19年=1944年)に土浦航空隊、4月には徳島海軍航空隊へと転配され、9月に少尉に任官。特攻に配属されたのです。》
《特攻配属のうち復員できたのは110名。ほぼ半数が死んでしまいました。亡くなったのは特攻出撃と、練習中の事故。事故も大変多かったのです。》
《私自身も、練習中に何度か死にかけました。特攻訓練は夜間飛行が中心でした。当時の飛行機にはレーダーはありません。(中略)海面と空の区別すら定かではない状態で飛んでいると、不意にエンジンが不調になり、高度が低下。海に墜落かと思った刹那、エンジンが盛り返し、九死に一生を得たという経験もありました。》
《私の特攻の順番は昭和20年の9月か10月ということでした。まさに明日をも知れぬ命だったのですが、終戦で出撃を免れました。》
「再建屋」の自負
九死に一生を得た巽は、1947年に京都大学を卒業し、住友銀行に入行した。大阪の本店営業部副部長などを歴任すると、大仕事が待っていた。
石油ショックにより70年代半ばに経営難に陥った東洋工業(現・マツダ)の再建を担当する、融資第2部の初代部長を務めることになったのだ。
《1979年、経営が傾いた東洋工業は、米フォード・モーターの出資を受け入れた。主力銀行の責任者として窓口を務めたが、国内メーカーに提携の打診を拒まれた末だっただけに協議は難航を極めた。1週間に2度渡米したこともある粘り強さと、曖昧な立場を取らない交渉姿勢でフォード側の信頼を得た。後にフォードに請われてマツダの社外取締役を務め、20年以上も再生に携わる。》(註2)
その後、巽は「再建屋」としてバンカー人生を送る。東洋工業だけでなく、関西汽船(現・フェリーさんふらわあ)、来島どっく(現・新来島どっく)、安宅産業(現・伊藤忠商事)、平和相互銀行(現・三井住友銀行)……と、立て直した企業は枚挙に暇がない。
頭取となったのは1987年10月。日本経済新聞論説主幹の原田亮介は2021年2月、「住友銀再生の立役者 胆力で危機克服、巽外夫氏死去」の記事で巽を追悼した。文中に、
《頭取として最も緊張した場面は、イトマン問題で磯田会長が日曜日に記者会見を開き辞任を表明した前日だったのではないか。夜、電話で磯田氏が辞任表明を巽氏に伝え、巽氏は「自分も辞める」と話したが、磯田氏に慰留された。慰留を承知の上で負の遺産処理に臨む決意を固めたのだろう。そんな労苦をおくびにも出さずに行内をまとめ、新生住銀への改革を進めた。会長就任以降はほとんど経営に口を出さなかった。磯田会長が口にし、住銀のカルチャーと言われた「向こう傷は問わない」という言葉を聞くことはついぞなくなった》
とあるが、筆者(有森隆)も同感だ。
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