終戦後、共産党幹部の釈放運動を開始した在日朝鮮人たち 驚くべき情報網と活動内容とは
いよいよ出獄の時が
かくしてギランらは共産党幹部との会見に成功した。そのスクープ記事は、世界中を駆け巡り、大きな波紋を広げた。GHQはギランの記事によって政治犯釈放の重要性を認識し、その3日後、方針を転換、釈放のため、日本政府に「人権指令」(政治犯の釈放、治安維持法・特高警察の廃止)を発するのだ。
ギランはこう書く。
「一九四五年の十月、日本降伏後ほとんど二カ月を経ているのになお多数の共産党員が、かつての特高と憲兵隊とによって投じられた刑務所のなかに引続いて秘密裡に監禁されたまま生存していることを発見したのは私である。(略)その発見の結果として、マッカーサーは、彼らを釈放する命令を与えたのだ。徳田はその時、すでに十八年間、刑務所にいた。私の府中刑務所での冒険がなかったならば、おそらくは、彼らはいまだに、あそこにいたかも知れない」(ギラン・同前)
10月4日、GHQは人権回復の指令を発令、10月10日10時に府中刑務所より、徳田球一、志賀義雄、そして朝鮮人共産主義者のリーダーで不屈の闘士金天海らの出獄が決定したのだった。日本共産党再建の中心的役割を担う共産党第1世代が府中刑務所からいよいよ出獄の時を迎えるのである。
帝国政府の混乱
人権回復の指令がでた10月4日以後、日本人の共産主義者たちにも動きが生まれた。地下のアジトに潜伏していた日本人共産主義者たちの間でも政治犯釈放の運動が10月6日以降、活発になるのだ。弁護士の梨木は、
「内野さんが私の事務所に机を持ち込み、正式に『解放運動犠牲者救援会本部』の看板を掲げたのは10月6日です」(吉田・同前―梨木氏証言)
と回想する。
一方、帝国政府は混乱したままだった。10月5日の朝日新聞の記事には、帝国政府が依然、政治犯の釈放には及び腰だった様子が書かれている。10月3日のロイター通信特派員ロバート・リュベンの訪問を受けた山崎巌内務大臣は「さらに共産党員である者については拘禁を続ける」と語り、岩田宙造司法大臣は中国中央通訊社特派員宗徳和の質問に「司法当局として政治犯人の釈放の如きは考慮していない」と答えている。
だが10月10日、GHQの指示通り、朝鮮人たちの大歓迎を受けて、思想犯が出獄するのである。
(敬称略)
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