終戦後、共産党幹部の釈放運動を開始した在日朝鮮人たち 驚くべき情報網と活動内容とは

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日本人共産主義者たち

 同じ頃、見渡す限り焼け野原と化した東京で、AFP通信のロベール・ギラン記者ら国際ジャーナリストたちは、徳田たち日本共産党幹部の居場所を探していた。

 占領軍の指令を受け10月15日に撤廃されるまでは、治安維持法が生きていた。朝鮮人共産主義者たちは、特高が解散する前から活動を開始したが、日本人共産主義者たちは取り締まりを恐れ、深く潜伏していた。

 朝鮮人青年の金より「徳田球一が府中刑務所にいる」との情報を入手したプロレタリア歌人の藤原春雄は、8月20日、アポなしで同盟通信社の山崎早市を訪問した。

 藤原はプロレタリア系の短歌会を主宰した左翼文化人で、「銀座三木ビル」を拠点に民主主義青年会議組織活動を行っていた(井上學「1945年10月10日『政治犯釈放』」「三田学会雑誌」慶應義塾経済学会)。

 同盟通信社の山崎らの関心事も、「日本共産党員が現在どこの刑務所に収容されているのか、また誰が、いつ、どこの刑務所で刑期満了となり釈放となったか、釈放された左翼人士は、現在どうしているのか消息を知りたい」(吉田健二「終戦の和平工作と政治犯釈放のころ――山崎早市氏に聞く〈2・完〉」『証言 日本の社会運動』大原社会問題研究所)というものだった。

芸者置屋をアジトに

 山崎らは、日本共産党の同志だった梨木作次郎弁護士の、三菱21号館の事務所を訪れた。だが梨木も、徳田の居場所を確認できずにいた。その梨木は、

「私らは1945年9月下旬まで、徳田球一さんや志賀義雄さんなど日本共産党の幹部が府中刑務所にいることについて、所在を確認できずにおりました。だが当時、徳田さんたちがどうも府中刑務所にいるらしいという噂があって、これは朝鮮人の間で流れていて、藤原春雄さんがその噂をキャッチして泉盈之進さんに伝えられ、私も承知しておりました」(吉田健二「救援運動の再建と政治犯の釈放〈3・完〉――梨木作次郎氏に聞く」『証言 日本の社会運動』大原社会問題研究所)

 と語っている。

 山崎早市は、銀座裏通りの芸者置屋の2階1室を借り、アジトとして活動をしていた。9月27日、ギランは同盟通信社の安達鶴太郎の案内で山崎のアジトを訪れ、そこでプロレタリア歌人藤原と出会った。

「このゲイシャやまでたどりつき、これらの左翼の人たちとめぐり合うまでのことは、なま易しいことではなかった。私にとって、一番困ったことは、七カ年日本で暮しはしたが、その間、一度も社会主義者や、共産主義者に会ったことがないことだった。そんなことをすれば、すぐに特高につかまってしまったであろう。その次に困ったのは、一九四五年九月『民主主義』のスローガンがマッカーサーによって宣言されはしたが、左翼の連中で姿を現わしたものの数は、まだきわめて少なかったことである。彼らはまだ警察をおそれ、いまだに廃止されていなかった『思想取締』の法律をおそれていた」(ロベール・ギラン「徳球を釈放させたのは私だ」「文藝春秋」1955年10月号)

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